くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

その後の木原寿八郎

前回レポートした甲佐の「新井手」を造った木原寿八郎の事を調べていたら、その後のj寿八郎の消息が判ったので寒さにめげず、朝7時過ぎにカーボンロードバイクで出発。

子飼橋を渡って三軒町通りを北上し、北熊本の先から坪井川沿いの道を北上。

楠野町から国道3号線に出て北上し、国道208号線へ左折して玉名市街地を過ぎ、

菊池川

長洲町へ。

甲佐手永の惣庄屋・木原寿八郎は、天保3年(1832年)10月、荒尾手永の惣庄屋として長須(現在の長洲)村に転任した。

会所(役場)が置かれた長洲のかつての中心街

着任後、寿八郎は支配地の村々を巡視して、早速、治水工事に着手した。

まずは「新塘」の整備を行った後に、

「鷲巣谷(わしのすだに)大堤御普請」にとりかかった。

 

長州町でも山間の、六栄地区にある「鷲巣谷」は、深い谷底に小川が流れていて、ひと度大雨が降ると激流となる一方、日照りの時には干上がってしまうため、地域住民は長きに渡り困っていた。

 

そこで寿八郎はこの谷に長さ140m、最上部の塘幅が11mの巨大な塘を築き、溜池を造る計画を立てた。

 

巨大なダムを造るのと同じような難工事となり、荒尾手永の資金だけでは不足するため、藩に援助を求め、近隣の資材やマンパワーも借りて、2年足らずの工期の末、天保7年の春に完成した。

以後、水不足は解消され、洪水の心配もなくなり、この大堤池は現在でも近隣の折地、腹赤、赤崎の三区で管理運用されている。

この大堤の完成を置き土産に、天保7年4月に寿八郎は、かねてからの願い通りに故郷・矢部手永の御山支配役として帰任し、晩年まで矢部の森林の管理に尽くした。

元矢部高校教師の著

長洲からは国道501号線をひたすら東へ走り、県道191号線に入って尾田から坂を上がり、

冠雪の普賢岳

玉東町を抜けて、阿蘇の山並みを見ながら菱形へ降り、

阿蘇も冠雪

田原坂ニュータウンをを経由して国道3号線に入り、楠野町から坪井川に降りて、朝来た道を帰った。

本日の走行距離:89.2㎞