本日は色々と予定もあるので、川尻の米蔵を見に行くことにする。
朝は家事手伝いをして午前9時過ぎにクロモリロードバイクで出発し、出水ふれあい通りを南下して中の瀬橋を渡り、加勢川沿いを気持ちよく走る。
身体が温まって来た頃に川尻に到着。
江戸時代、川尻は薩摩街道の宿場町として、また、緑川・加勢川から有明海への水運の玄関口として栄えた。
中でも、玉名の高瀬、八代とともに熊本藩の米の集積場として栄え、現在でもその蔵の一部が残っており、蔵の近くには運搬のために船着場、その船着場で働く人々が利用した船着場などがよく保存されて残っている全国でも唯一な場所であり、国指定の史跡として整備され、ひと月ほど前からその米蔵が一般公開されている。
先ずは「船着場跡」を散策。
長さ150mにわたり13段(後に14段)の石段が設けてある。
上の壇には明治期になって造られた煉瓦積みの公衆トイレ跡も残っている。
その先にある「御船手渡し場跡」。
江戸時代には、対岸の杉島やその周辺には藩船の乗組員や水夫たちが多く住んでおり、三カ所の渡しがあったが、そのひとつがこの渡し場。昭和36年まで使用されたが、周辺の河川改修のために水位がさがったのと、陸上運輸が主体となり、以後は使用されなくなった。
石畳の先端近くの船つなぎの石が往事を忍ばせている。
そして最後が熊本市記念館の「熊本藩川尻米蔵」。平成26年から始まった整備が熊本地震により遅れて令和5年10月21日に開館した。
江戸時代、ほとんどの年貢米は、水運を通じて飽田・託麻・益城・宇土の4郡の18の手永から20万俵が川尻御蔵に集められ、そのほとんどは「藩米」として大阪まで送り込まれていた。
当時川尻には、三カ所の蔵があったが、
唯一残っているのが「外城蔵(とじょうぐら)」である。
東西ふたつの蔵からなる「外城蔵」は広さが約200坪あり、約2万俵の米が収められた。
蔵の中には多くの格子状の仕切りがあって、手永ごとに米俵を納入する場所が区切られていた。
また、蔵の中には川尻の歴史や蔵の再建・整備の様子などをパネルや動画で詳しく観ることができ、館長さんからさらに詳細な解説もしてもらい、有意義なひと時を過ごすことができた。
冷っとする蔵の中から出ると陽射しも暖かくなってきて、川尻の街並みを抜け、新幹線沿いに北上し、白川沿いの道を走って帰った。
本日の走行距離:27.2㎞