10日振りくらいに雨が止んで、朝からサイクリングに出かけようとしていたら、夫婦喧嘩が始まり、一旦休戦状態に入った頃には家の前の舗装道路も乾いてきたのでサイクリングに出かける。 時間もあんまりないので、本妙寺まで上がり、あとは横手、川尻を廻った。
清正公は永禄五年(1562年)六月二十四日、尾張国中村に父・加藤清忠、母・伊都のもとに生まれた。
父の清忠は美濃の斉藤氏の家臣だったが、戦で脚に大怪我を負ったために武士の身分を捨て、鍛冶屋に弟子入りした。そこで鍛冶屋の清兵衛の娘である伊都と出会い、やがて所帯を持ち清正が生まれた。ところが、清忠は清正が3歳の時に病のため他界。伊都は一家の大黒柱を失った。伊都は熱心な日蓮宗の信者であり、清正が5歳の時、近くの日蓮宗・妙延寺に清正を預け、経書、仏法、書道を習わせた。その後、井都は清正が9歳の時、井都は従妹の「なか」の息子夫婦に預けた。後に天下人となる秀吉とねね夫婦である。 子供がいなかった秀吉・ねね夫妻のもとで清正は育てられた。
天正16(1588)年、清正が25歳のとき、秀吉から肥後半国(熊本県北部)19万5000石を与えられると、伊都も一緒に熊本城(熊本市)に入城した。
その後、伊都は髪を切り、天室日光尼と号し、清正の武運を仏に祈る日々を過ごす。清正も朝鮮出兵では、自ら彫刻した伊都の像を持ち込み、陣中で拝んだといわれている。
廟の中には伊都の木造が安置されているそうなので、拝観をお願いしに寺務所の門を叩くと出て来た坊守さんは何と小・中学校時代の同級生!
元々、本妙寺の末寺で、慶長年間に清正の側室「本覚院」の菩提寺として建てられた。
清正には正室のほか、数名の側室がいたことがわかっており、そのうちの一人、本覚院は菊池武宗の娘と伝えられている。
慶長4年(1599年)に清正の子・熊之助(忠正)を生むが、悲しいことに、その忠正は8年後の慶長12年(1607年)に幼くして病死。
その20年後、本覚院は寛永3年(1626年)4月9日に死去。
そこから南へ走り、白川沿いの道から九州新幹線の高架の西側の道をのんびり走り、川尻へ。
清正にははじめ、正室に「山崎氏」という糟糠の妻がいたが、この方は若くして死去。
慶長3年(1598年)に清正の育ての父ともいえる豊臣秀吉が死去し、この後、清正は急速に徳川家康との関係を深め、関ケ原合戦の前年の慶長4年(1599年)、清正は徳川家康の養女で、水野忠重の娘「かな」を継室に迎えた。
結婚後、「かな」は大坂の屋敷に住んでいたが、関ケ原合戦前夜、石田三成が各大名の奥方を人質として大坂城へ入城させようとしたため、家臣の機転により屋敷より脱出し、清正の待つ熊本城へ迎えられた。
慶長6年(1601年)、二人の間には「八十(やそ)姫」(のちの瑤林院)が誕生。慶長14年には清正と家康との取り決めで、八十姫と家康の息子・頼宣(後の紀州主)との間に婚約が交わされた。
慶長6年(1601年)、二人の間には「八十(やそ)姫」(のちの瑤林院)が誕生。慶長14年には清正と家康との取り決めで、八十姫と家康の息子・頼宣(後の紀州主)との間に婚約が交わされた。
しかしその2年後の慶長16年(1611年)清正が急死。わずか12年という短い結婚生活だった。
「かな」は髪を下し、清正の跡を継いだ忠広(側室・正応院の子)の嫡母として忠広を後見。
元和3年(1617年)には娘・八十姫と婚約者である徳川頼宜との婚儀が無事執り行われた。
加藤家改易後はいったん実家の水野家に戻り、晩年は京都の本圀寺に隠棲し、明暦2年(1656年)に75歳で亡くなった。
加藤家改易後はいったん実家の水野家に戻り、晩年は京都の本圀寺に隠棲し、明暦2年(1656年)に75歳で亡くなった。
川尻の「法宣寺」は1600年代に継室・清浄院が武運長久の為に創建されたと言われている。寺内には報恩供養の為に建立された清浄院の供養塔がある。2月3日の節分会には檀信徒だけでなく、清正の継室の遺徳をしのんで多くの方が参拝に訪れている。
本日の走行距離:38.1㎞