家内が生鮮食品を買い出しに行く前に山鹿市の平山温泉でひと風呂浴びると言うのでわたしもクロモリロードバイクを乗せて便乗し、平山温泉からサイクリングをスタート。
意外と交通量がある県道195号線を西北に走って和水町に入り、
さらに県道195号線の緩やかな坂を上がって、突き当りのようなところを右折して「耳の神様」のところから予想を超える激坂に突入。
久しぶりの険しい坂道を何とか上りきって辿り着いたのが東山公園。
園内の遊歩道を150mほど上がった右側、
展望台の手前に帝国海軍、第三四三海軍航空隊の石塚光夫中尉(戦死にて昇進)の墓がある。
第三四三海軍航空隊は、大戦末期の昭和19年12月、歴戦の生き残り搭乗員を集め日本海軍最後の新鋭機「紫電改」を擁して再編された。
源田実大佐の司令の下、敗色濃厚な日本本土の防空戦のなかにあって終戦まで活躍した部隊として知られる。
その第三四三海軍航空隊の中でもエース級の搭乗員だった石塚光夫海軍少尉は太平洋戦争も終局を迎えた昭和20年8月8日 沖縄より北九州方面の攻撃に向う200機を超える爆撃機B-29とこれを護衛する戦闘機P-47Nの大編隊を迎撃するために紫電改24機で大村基地を離陸した。
そして午前10時、敵爆撃機の大編隊の真只中に敢然と迎撃をかけた石塚中尉搭乗の紫電改は被弾し、高度約千メートルの上空から飛行機の破片をまき散らしながら現在の和水町の東山の山中に墜落。遺体は座席がついたまま仰向けの状態で発見された。 遺体は村人達によって荼毘に附され 墓石が建てられて遺骨は後日遺族のもとに手厚く引き渡された。
昭和53年、道路計画により墓地の移転を余儀なくされたが、町当局と付近住民の協力と、地元予科練会の尽力により現在の「東山公園」に移転された。
これを機にご遺族により観音像が建立され、
あの日石塚中尉と共に散華した十三名の戦士の名を刻んだ
「殉空の碑」が戦友によって立てられ、
さらに石塚中尉を称える歌碑まで建立されている。
ふたりの子の心優しき父親であったという石塚少尉が32才の命を散らせた空を眺めて坂を下った。
そして平山温泉で久しぶりのカツカレーをいただき、
JAかもと夢大地館で食材を調達して帰った。
本日の走行距離:17.9㎞