今年の夏の「熊本県内戦争遺跡探訪ライドシリーズ」も本日でお仕舞い。 宇土半島を目指しクロモリロードバイクで朝5時前に出発し、いつものように出水ふれあい通りから画図の田舎道を走り、中の瀬橋を渡って加勢川沿いの道を西へ。
県道182号線へ左折し、南下してウキウキロードに入り、
宇土の田舎道を走って不知火からは不知火海沿いの国道266号線を西へ。
郡浦(こうのうら)から県道243号線へ右折し、坂を上る。
ヘアピンカーブが連続するあたりに目的のものがあるはずが見つからず、近くの民家に尋ねると大変親切なことに原付で先導してくれた。県道のヘアピンカーブから100mほど入った蜜柑畑の外れにポツンと立っていたのが第三五二海軍航空隊の隊長・杉崎直大尉の墓である。
昭和19年6月、中国成都からB-29が八幡製鉄所を目標に爆撃を始めたため、これを迎撃するために昭和19年8月に長崎県の大村基地に開設されたのが杉崎大尉の属する第三五二海軍航空隊。 前回のレポートでご紹介した第三四三飛行隊と同様に飛行経験の多い搭乗員を中心に、零戦や雷電、
それに月光
などの軍機を擁して太平洋戦争終盤に九州上空の迎撃・戦闘行動に従事し戦果を挙げた。 しかし戦後にマスコミにもてはやされたのは、同じ大村飛行場に配属されていた前述の第三四三飛行隊の方だった。賑やかな三四三とは対照的に三五二には静かな職人肌の人が揃っており、三四三が「動」なら
三五二は「静」。
その実績は三四三に劣らなかった。
さて、「352空奮戦記」によれば・・・ 昭和20年3月31日 マリアナ基地からB-29の大編隊が大村方面へ来襲中との情報により第三五二海軍航空隊の隊長・杉崎直大尉指揮の戦闘機隊、零戦・雷電・月光の計36機が発進した。大分県出身の杉崎直大尉はこの時26才だったが、すでに24回の戦闘や哨戒の経験があり、B-29を単独で1機、部下と共に4機撃墜するなど戦果を上げていた。地上からの指令により高度9千メートルの哨戒高度に上昇中、B-29の編隊は予期に反して、高度4~5千メートルで大村上空に侵入して来たのを発見したが、時既に遅く有効な攻撃を敢行することは出来なかった。それでも杉崎隊長は何とか熊本県三角上空で敵編隊を捕捉して、果敢に突入したが無念にも被弾、火を発して壮烈な戦死を遂げた。
杉崎隊長機の墜落現場となった蜜柑山の地主さんは、収容洩れになった遺体の一部を発見して、氏名不詳のまま、埋葬して木の墓標を建て、ひそかに供養していた。やがて地主さんも変わったが、新しい地主さんも朽ちた木の墓標を石碑に建て替え、供養を続けていた。そのうちに杉崎隊長の遺体の一部である事もわかり、地元の有力者も動くことになり、墜落現場に程近い三角町千房に故・源田実参議院議員(大村飛行場では「四三四」の方の司令官)の揮毫になる「留魂の碑」が建設され、
杉崎隊長の功績が「空の軍神」として顕彰されており、
辞世の歌や
ご遺族などの紹介もしてあった。
ご近所の方によれば、以前は命日の3月31日に三角町の人を始め、大分の竹田からご遺族も見えて、慰霊祭をしていたが、やがて関係者の高齢化とともに途絶えてしまった。しかし、今でも命日などにお参りに来る人がいる、とのこと。 留魂の碑を後にして県道をそのまま網田に下り、
国道57号線、宇土北部農道、走潟を経由して、浜戸川沿いの道を走り、国道3号線を北上し、川尻からは加勢川沿いの道を走って帰った。
さて、番外編だけど、杉崎直隊長の実機である「零式艦上戦闘機52型丙」と言うのをネットで調べていたら、何と模型で「杉崎直隊長機」というのが販売されているのを知った。
さらには模型完成品の「零式艦上戦闘機52型丙の杉崎直大尉機」が某オークションサイトに出品されていたので
「これも何かの縁・・・」と思い、ポチッと入札。そして今朝確認したら、無事、「落札」(入札はわたしだけ)。
北海道の模型店から送られてくる「杉崎直大尉機」が楽しみ! 本日の走行距離:83.13㎞