くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

万日山えれじい

土曜の午後、僅かな時間を利用してJR熊本駅に西にある万日山の中腹まで上った。

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通潤橋を造った布田保之助の墓がある南の麓から、

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激坂に息を弾ませながらペダルを漕ぎ、活人形のある来迎院の向かい側の空き地の奥にある「万日塔」を見学。

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(探し出すのに大変苦労した)

「万日山」の名前の由来ともなったこの塔は、江戸時代にここに建てられていた「如意庵」という浄土宗の小寺院で一万日間、昼夜を問わず念仏を唱え続けた記念に立てられたモニュメント。 「一万日」と言うとピンと来ないけど、「27年と5カ月」と言い換えると、途方もないその時間の長さを実感。 横には熊本地震で倒れたままになった万日塔があと二基あるので、合計すると念仏を唱え続けた時間は80年以上! 「万日塔」を気が遠くなりながら眺めた後は、さらに激坂を上り、

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「肥後医育の先達」の眠る墓地を通り抜けて、

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ロードバイクを押してさらに狭い坂を上り、茂みを抜けて、山の中腹にある「万日山緑地公園」へ。

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地元の某化粧品会社が桜の植栽など力を入れて整備を進めているこの公園を含む一帯は、以前、在日韓国・朝鮮人の500人ほどの集落があった地である。

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彼らは万日山の斜面に這いつくばるように家を構え、養豚業やどぶろく(マッコリ)の不法醸造を行って生計をたてていたが、昭和30年頃には税務署による不法醸造酒の取り締まりが強化されたのをきっかけにこの地を離れるものが増えた。 政治学者の姜尚中(日本名:長野鉄男)氏はこの集落で在日二世として生まれ、5歳まで過ごした。

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その後、昭和30年頃一家は立田山の西麓、室園と清水本町の境に土地を得て、廃品回収業で生計を立てた。

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(現在の長野商店)

姜尚中氏は近くの濟々黌に進学し、

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早稲田大学に入学。大学生の時、韓国在住の叔父を訪問したのをきっかけに自身のアイデンティティを確立し、日本人としての名前を捨て「姜尚中(かんさんじゅん)」と名乗るようになった。

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万日山時代を始めとする一家の様子については、氏の著書、「母 オモニ」によく書いてあり、熊本市民には馴染みの地名や方言が頻出する。

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氏のお母さんは、朝鮮半島の南端の地に生まれ、小さい頃から苦労して働いていて、見初められて熊本に来て、差別を受けながらも周りを気にすることなく法事などの祖国独自の年中行事を頑なに続けた。地元の人と間違えるほど流暢な熊本弁をしゃべる一方で、幼い頃から学校教育を受けてないためハングルも日本語も読み書きもままならなかったとか。

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それでも異国の地で明るく、力強く生きた「オモニ」のことを想いながら万日山の中腹から峰続きの花岡山方面を眺めた。

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ちなみに、元々万日山集落時代の「オモニ」の副業で、移転後に夫と始めた廃品回収業の「長野商店」はその後、姜尚中氏のお兄さんが後を継いで順調に発展し、

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今ではわしの職場の書類の廃棄の際には大変お世話になっているし、熊本地震の後、実家の後片付けの際にも、何度も廃棄物を運んだ。

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そして今回も母の居なくなった実家の整理を始めたので、その処理でまたお世話になる予定。