くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「四兄弟と一匹」ライド

今月は時節柄、第二次大戦関係の番組が増え、ケーブルテレビの映画専門チャンネルで今年も「プライベートライアン」を何度もやっていた。

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ライアン家の四兄弟のうち、上から三人までが戦死したことが判明。ノルマンディー上陸作戦中に行方不明になっている、残りひとりのライアンを救出しようとして何名もの兵士が犠牲になって行く。

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「戦時の四兄弟」というと、身近なところでは、「神風連の乱」の、「小篠(こしの)四兄弟」を思い出してしまう。

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江戸末期、四百石の世禄高を持つ肥後藩・小篠家には「一三」、「彦七郎」、「清四郎」、「源三」の四人の兄弟がいた。

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二男の「彦七郎」は近くに養子に行き、「山田」姓であったが、他の兄弟たちと緊密にしていた。 幕末の肥後藩の士族は教育方針により、学校党、実学党、勤王党に分かれていたが、四兄弟は国学神道を基本とした教育を重視する勤皇党に属していた。 維新後、明治政府の方針は勤王党の目指すものと大きく異なり、勤王党の若者たちは不満を募らせていた。 そして明治9年、10月24日、勤王党の若者を中心とした約170名による「神風連の乱」が勃発。

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四兄弟いずれも、志を同じくし、相携えて出陣した。 しかし、乱は一夜で鎮圧され、神風連側は124名が戦死。 小篠四兄弟とも戦死は免れ、一三と彦七郎は同志数名らと共に島原に渡って潜伏したが、再挙兵の望みがないのを知って帰国、飽託郡中島村まで帰ってきて

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田圃の中の「鎮守の森」が荒木神社

荒木神社で自刃。

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清四郎、源三は他の同志数名と金峰山山麓に潜伏したが、谷尾崎三王社(日吉神社)で

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高田健次郎、兼松群喜・繁彦兄弟と共に五士自刃。

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この際、彼らの父親・小篠千次郎は「縄目を受くるは武門の恥なるぞ」と潔ぎよく切腹する事を勧めたと言う。 一三27歳、彦七郎25歳、清四郎22歳、源三18歳。 地震の爪痕が今も残る本妙寺

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参道に面する「雲晴院」。

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その一角に、四兄弟の墓がひっそりと並んでいる。

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(一番左の真っ黒のが「一三」、真ん中が「彦七郎」、右が「清四郎」と「源三」の墓石)

墓石の側面には夫々の辞世の句が彫られている。

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四男の源三には愛犬の「とら」がいた。源三の死後、「とら」は源三の墓前に座り続け、与えられた食もとらず、ついに餓死して主人に殉じた。 その忠犬「とら」の墓も、清四郎と源三の墓の横に立てられている。

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ところで、「小篠四兄弟」と言われると、やっぱり「小篠(コシノ)三姉妹」を思い出してしまうなあ。

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(こちらの「小篠」も、かなりのインパクト!)

本日の走行距離:31.6㎞

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