くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

小粒でピリっと「竜口隊」

日頃撮り貯めた画像等を使って、薩軍に加勢した熊本城下の集団をレポートする最終回・・・。 140年前の明治10年(西暦1877年)2月19日、天下の名城・熊本城は炎上した。

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(「西南戦争記事」の挿絵)

火災の原因は諸説あるが、内戦継続中の明治10年8月に出版された「西南戦争記事」という本によれば、炎上の前日、熊本城を拠点とする鎮台から「明日、城下を焼き払うので、住民は急ぎ避難するように・・・」という旨の通達があっていたと言う。

さらに、元熊本藩士・吉田如雪が書き残した当時の日記によれば、後日、鎮台兵が炎上を免れた京町の家々にも火を放つ様子が記述されている。

城下の炎上は「熊本城の火が折からの強風に煽られて延焼した」と伝えられているが、こちらも鎮台兵による放火の可能性が高い。

 

炎上する熊本城とその城下を目の当たりにして動揺し涙する人たちの中に中津大四郎がいた。 大四郎は弘化元年(1844年)、肥後藩士・福田五左衛門の次男として熊本城下の京町で生まれた。 幼い頃,肥後藩の乗馬(馬術)師範役を務めていた中津八角の養嗣子となり、中津姓を名乗ることになった。 以後、大四郎は馬の調錬に精を出し、父親の跡を継ぎ、藩の馬術師範役となった。 細川家は馬術を重んじていたらしく、そう言えば、宇土半島の網津の馬門(まかど)地区にピンク色の馬門石を探しに行った時、採石場の近くに「牧神社」と言うのがあり、

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そこにあった案内板で、江戸時代には藩管轄の牧場が周辺にあったことを知った。

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また、日向往還をサイクリングした時には、田迎に「犬追物場」という、藩の馬術訓練場の跡地の石碑があったな。

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(今、こんなことしたら批難轟々でしょう)

江戸時代、乗馬は帯刀とともに武士のみに許される特権であったが、明治4年、廃刀令と共に乗馬についても身分の制限がなくなり、この「犬追物場」も閉鎖されたらしい。 その様な中、大四郎は維新の後も変わらず結髪し、常に良馬を養って、その訓育を怠らなかった。廃刀令で帯刀が禁じられてからは太刀を袋に入れ、常に携えて外出した。 目鼻立ちは整い、立ち居振る舞いが厳かで、古武士の様であったと言う。

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(イメージです)

そして明治10年2月19日、鎮台兵の放った火で炎上する熊本城下に民衆の嘆き狼狽する姿を見た大四郎は川尻に集結し始めた薩軍を支援する事を決心し、「今こそ国家存亡の瀬戸際である。士たるものは立ち上がり、薩軍とともに鎮台兵を掃討し、住民を苦しみから救おうではないか」と呼びかけた。 同志40人が呼びかけに応じ、翌2月20日、「日本で最初のスクランブル交差点」となる子飼交差点

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(向こう正面が「久本寺」の木立)

に面する「久本寺」に本営を置いた。

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大四郎自ら作った軍旗には、行動を起こした趣意と和歌が書かれていた。

「諸人の なけきの聲を きき兼ねて 今うち出つる もののふの道」

大四郎らの当初の役目は薩軍の食料基地を守ることで、「護衛隊」と呼ばれた。 間もなく彼らは鎮台兵の食糧庫が大江にあるのを突き止め、これを襲撃して食料を略奪。三軒町の某所、

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明午橋の畔、

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(ここいらあたり、かいな?)

浄行寺交差点の坪井竪町側にある養徳寺

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の三カ所に食料庫を置き、薩軍への食糧の配給を始めた。 それ以降、彼らは薩軍の後方支援に徹してきたが、初め40名だった隊は、いつしか200名の大所帯となっていた。

4月15日、薩軍が熊本城包囲を解いた後も共に行動し、やがて、戦闘にも参加するようになり、隊の名を「竜口(りゅうこう)隊」とした。 隊の名の由来は、本営を置いた「久本寺」があった現在の子飼から浄行寺にかけてを当時は「竜田口(立田口)」と呼んでいたからと言われている。

ちなみに、「竜田口」と言えば、JRの駅

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のある現在の龍田町付近を思い浮かべるが、浄行寺交差点から少し坪井方面へ進んだところにある通称「赤鳥居」に当時の名残を見ることができる。

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「竜口隊」は他の隊と比べると小規模ではあったが、それだけに隊員たちの結束は堅かった。しかし政府軍はさらに勢いを増し、薩軍は追い詰められ、九州の脊梁地帯へと敗走した。 乗馬の達人である大四郎は他の者が徒歩でも尻込みするほどの急峻な道でも意に介さず、愛馬に跨り行軍したと言う。

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(あくまでもイメージです)

その後も薩軍は敗走を続け、8月の半ば過ぎ、延岡北部の山間部の小さな村にたどり着いた時には、武器弾薬も食料も尽き、四面を政府軍に囲まれ、ついに西郷は「解軍宣言」を出した。 これを受け、大四郎は竜口隊の同志達に「生きて素志を明らかにし、公裁を仰ぐべし」と説いた。

そして、隊長として自分ひとりが責任をとれば十分として、共に戦った熊本隊、熊本協同隊、および薩軍本営を愛馬を駆って回り、別れの挨拶を済ませ、「ともに死なせて欲しい・・・」と懇願する隊員たちを優しく諭し、副隊長・野口勝蔵の介錯のもと、山中でひとり自刃した。

辞世の句は、「義を立てし 身はこの山に捨てて名を すえの世にまで 遺す嬉しさ」。 34歳の若さだった。

最初に本営を置いた子飼交差点横の久本寺境内には大四郎を顕彰して石碑が建てられている。

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さて、自分が当時の熊本城下に生まれていて、「3つの隊のうちのどれかを選べ!」と言われたら、やっぱり、この「竜口隊」かな?