くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

怪力無双の横手五郎

その男の名前がわたしの記憶に刻まれたのは、数年前、横手にある熊本水遺産の「産女(うぐめ)の水」を訪れた時だった。

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「横井五郎」という男が産湯に使ったという言い伝えのある、その小さな湧水から100mほど東側に離れた山肌に、石碑が建っていた。

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横手五郎は、天正13年(1585年)に横手村で生まれた。

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彼の父は戦国武将の木山弾正(きやまだんじょう)。益城郡の赤井城の城主である。赤井城は赤井火山の火砕丘

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に建てられた城で、現在は日枝神社となっているが、石垣に当時の様子が偲ばれる。

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赤井城は島津氏に攻められ落城し、弾正は妻の郷里の天草に逃れる。 小西行長の天草支配に対し国衆達が背くと、弾正は一揆軍に加わり、天正17年11月5日、小西方の加藤清正と一騎打ちとなり、まさに清正を討たんとする時に無念の死を遂げた。 遺された五郎は、五歳の頃には、米俵を担ぐほどの怪力を誇っていたとされる。父の仇をとるために、熊本城の築城に際して、石運びの人夫として潜入。 たちまち怪力ぶりを発揮し、先日走った「木山往還」に遺された「猫伏石」

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のエピソードや、

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熊本城内、

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宇土櫓と天守閣の間の広場に遺される重量1800kgの石を首に掛けて、ひとりで運んだという逸話が残っている。

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その後、仇討ちの件が発覚し、五郎は井戸に生き埋めにされたという。

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江戸時代には、この五郎の死を憐れみ、当時の横手の吉祥寺の毘沙門堂に御霊を祀られた。

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明治以降に横手阿蘇神社内に毘沙門堂が建立され、横手五郎大明神として祀り、永年命日の9月13日には祭礼が行われてきた。

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残念ながら、昭和51年の不審火で毘沙門堂は焼失し、祀られていた横手五郎像は表面が焼けた状態となったものの、今も社殿横の部屋に祀られている。

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「横手五郎」で検索をかけると、実に多くのサイトがヒットする。その逸話の多くは上に紹介したものであるが、中には違うものもある。 「仇討ちの機会を狙っていた五郎は次第に清正公の人柄に魅かれる様になり、後には忠実な家臣となった」という話や、「横手五郎は木山弾正の遺児ではない」などなど。 いずれにせよ、”Big Fish”的な昔話には、ついつい魅せられてしまう。 本日の走行距離:20.8㎞

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