寒いけど午前8時過ぎにクロモリロードバイクで出発。
北バイパスから日田街道に入って北上し、菊池平野の集落で仏像巡りをしようかと思っていたけれど、途中の泗水で毘沙門堂を探していたら、北風が強くなって、やったら寒冷えて来たので、「道の駅・泗水」で暖をとり、グーグルマップを見ていたら、近くに「警神 増田敬太郎巡査生誕の地碑」というのを見つけたので行ってみることに。
ググってみると、その人は日本で唯一人、警察官で神様になっているんだそうな。
増田敬太郎は、明治2年(1869年)8月10日、熊本県合志郡泗水村(現・菊池市泗水)の増田家の長男として誕生。地元で漢学・数学・測量学などを学んだ後、東京にて法律学・鉱山学・英語・速記術を学ぶ。北海道開拓団を引率して渡道、その後、馬見原の用水路整備に従事したり、地元で養蚕業を興し、長崎で貿易業にも従事したのち、「人の役に立ちたい」と警察官を志し、明治28年(1895年)に佐賀県巡査採用試験に合格した。
増田は上記のようにすでに私塾で学業を修めて一般教養に秀でており、本来3か月かかる巡査教習所の教習課程をわずか10日で習得し卒業。同年7月17日に佐賀県巡査を拝命し、19日には唐津警察署へ配属されることになった。
当時、日清戦争終結に伴い外地から兵士が帰還すると全国的にコレラが流行しており。7月には佐賀県東松浦郡入野村高串(現・佐賀県唐津市肥前町高串)でもコレラが発生し、猛威を振るい始めていた。
当時高串を担当していた巡査は病気がちであったため、後任者を警察本部から探していたところ、巡査を拝命したばかりではあるが27歳にしてすでに多方面の経験を積んだ増田敬太郎が派遣されることになった。
増田巡査は人の行き来を遮断するための交通規制、生水使用や鮮魚の生食禁止など健康者への厳しい指導などに加え、コレラで亡くなった遺体の運搬、埋葬も自ら行った。
しかしながら、高串に赴任して三昼夜にわたって不眠不休でコレラ防疫に尽くした増田巡査は、自らがコレラに罹患し、赴任後四日目に殉職。
死の直前に「高串のコレラは私が背負っていくから安心してください。私の指導通り予防対策を実行したらこの悪病は退散します」と増田巡査は言い遺していた。
増田巡査の遺言どおりに高串地区のコレラは間もなく治まった。高串地区の人々は、増田巡査の献身的な功労に感謝し、遺骨の一部を見晴らしの良い秋葉神社の境内に埋葬。その後、参拝者が後を絶たず、増田巡査と秋葉神社は合祀され増田神社となり、
いつしか住民により7月末に「増田夏祭り」が行われるようになって、今に続いている。
祭りでは、漁師町らしく大漁祈願の山車と、
増田巡査の山車も集落を練り歩くという。
泗水町田中地区にある増田敬太郎の生家前には立派な顕彰碑が建てられている。
そこから東へ少し行った田中地区の共同墓地の
奥にある増田敬太郎の墓には、今も佐賀から墓参の人がよく来るとのこと。
帰路は日田街道を南下。少し陽も射し始めたので黒石の石屋さんの七福神やら、
大慈院にある宝篋印塔や
青面金剛字碑などを
ハントしながら追い風に乗って、比較的快適に走った。
本日の走行距離:36.6㎞