このところ、何度かに分けて三島由紀夫と所縁のある熊本市内の地を廻ったので2回に分けてレポートしたい。
三島由紀夫は、最後の長編小説となった「豊饒(ほうじょう)の海」の第2部「奔馬」を書くにあたり、神風連の取材のために昭和41年8月27日から31日まで熊本を訪れた。
この際、三島の学習院時代の恩師の紹介で案内役を任されたのが荒木精之(せいし)氏であった。
荒木氏は文化総合雑誌「日本談義」を主宰し、神風連研究の第一人者でもあった。
来熊の動機を三島に聞くと、「インドのガンジーの糸ぐるまに象徴される抵抗の精神が、日本には何があるかと考えるうち、神風連に至った」と言い、「どうしても神風連をとりあげ、日本といふものを見つめたい」と言うのであった。
そんな三島は荒木氏の案内を受けて桜山神社、
小峰墓地、
本妙寺、
熊本城周辺、
天明町の新開大神宮など、
熊本市内に点在する神風連関連の史跡を中心に廻った。
この間、かねてから剣道を嗜んでいた三島は、
8月29日の夕刻、自ら望んで水前寺公園近くの町道場で稽古に汗を流した。
その時の事を後に、こう述べている。
「以前、夏のさかりに熊本を訪れ、有名な道場の『龍驤館(りゅうじょうかん)』で、少年たちと剣道の稽古をしたのち、全身にしたたる汗のまま、正坐をして、先輩格の少年が、はりさけるような声で、
『神ぜえーーん』
と号令をかけ、神前に礼をしたときのさわやかさは忘れがたい。それは暑熱の布地を一気に引き裂くような涼しさだった。」
(三島由紀夫のことば「作法とは」より)
帰京後、荒木氏へのお礼の手紙の中で三島は「神風連の遺風を慕って訪れた熊本の地は、小生の心の故郷になりました。日本及(およ)び日本人がまだ生きてゐる土地として感じられました」と記した。
東京生まれ、東京育ちの三島だったが、少年期から熊本出身の数名との深い交流があり、中でも三島の生涯に渡って大きな影響を与えたのが蓮田善明(ぜんめい)であった。
(後篇に続く)