くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

宮本武蔵フルコース

朝から急用ができてしまい、それを済ませたら午前11時近くになってしまった。 そこで、晩年を熊本で過ごした剣豪・宮本武蔵の足跡をフルコースで辿ってみることにする。

画像

実は熊本に来る前の武蔵に関しては、ほとんど資料がないそうで、武蔵に関する資料の実に9割が熊本に現存しているんだと。 クロモリロードバイクで出発し、まずは新屋敷を通り、仮の明午橋を渡って中心街へ。 武蔵は天正12年(1584)、播磨国(兵庫県)に生まれた。13歳で新当流の有馬喜兵衛に打ち勝って以来、29歳までの間に60余度の勝負をして一度も敗れなっかったと言う(五輪書より)。 その後さらに、剣理を追及して兵法の深奥を極め、ニ天一流を創始。

画像

そんな武蔵が熊本に来たのは、寛永17年、57歳の頃。 三百石の客分待遇で、千葉城跡に居宅を与えられ、細川忠利公に仕えた。 熊本アークホテルより少し坪井方面に進んだ坪井川沿いの歩道に石柱が立っていて、武蔵の住居跡の場所を教えている。

画像

石柱の上の部分には武蔵を象徴する筆と刀と巻物が刻まれている。

画像

対岸の熊本西年金事務所の敷地の一角には旧居跡の標柱が立っている。

画像

そのすぐ南側にある千葉城跡は現在、NHK熊本放送局となっており、

画像

その玄関の近くに武蔵が使用したという井戸が残されている。

画像

次に新町、段山(だにやま)を経由して島崎の島田美術館へ。

画像

正保2年(1645)初夏に歿するまでの晩年5年間を熊本で過ごし、この間に「兵法三十五箇条」「五輪書」などを著し、また、茶・禅・書画三昧の日々を送った。 武蔵は秀れた画人でもあり、自在な中に鋭い気迫を伝える彼の遺作は、日本水墨画史上に独自な位置を占めている(島田美術館のHPより)。 島田美術館は武蔵の書画や所持品など数多くの武蔵に関連した所蔵品を誇る。

画像

美術館の島田真祐館長(わたしが学生の頃バイトしていた予備校で国語の講師をしておられた)によると、武蔵の絵の特徴は「単体」であること。すなわち、動物にしても人物にしても単体で描くのがほとんどで、これは彼が、「世界」というものにひとりで対峙し、己と向き合ったからに他ならない、とのこと。ふむふむ。 この日は他に「刀剣と甲胄展」もやっていた。

画像
(島田美術館のHPより)

島田美術館から西回りバイパス沿いに南へ走り、右折して谷尾崎梅林公園へ。

画像

この公園の奥に、たたみ二畳ほどの巨石があり、武蔵がこの上で座禅を組んだと伝えられている。

画像

また西南の役の時には、当時、連隊長であった乃木希典もここを訪れ、武蔵に因んで、座禅を組んだとも言われている。 なーんて言っていたら、ここで同僚のN先生と鉢合わせ!写真が趣味の彼は、梅の開花状況をチェックしに来たんだけど、生憎、数本がわずかに咲き始めている程度だった。

画像

西回りバイパスに戻り、井芹川沿いの道に走り、坪井川と合流するところに来るとお腹が減ったので、近くのヒライでエネルギーを補給。その後、坪井川沿いの道を走り、松尾町に入って、久しぶりに「檜垣のこぼし坂」を上るつもりだったけど、水場の先で通行止め(後で確認に行ったら日曜日で「休工中」)。仕方なく、松尾東小学校の上の四つ角を左折して、坂を上り、松尾西小学校の先から上がってくる「パイロットロード」に合流してさらに坂をのぼり、

画像

みかん畑を抜けて岩戸の里公園へ。

画像

頭でっかちの武蔵像に「ボケ防止」の祈願をして、劇坂を下って雲巌禅寺へ。

画像

ここの境内には資料館があり、武蔵ゆかりのものが展示してある。奥に進んで行くと、五百羅漢(武蔵の頃には無かった)

画像

を始め、色んなものが安置されており、霊場らしい独特な雰囲気を醸し出している。 そして、その一番奥にある霊巌洞へ。

画像

岩戸観音が祀ってあるこの洞窟に、武蔵は60歳の時に籠り、兵法の極意書である「五輪書」を書き上げた。

画像

頭でっかちの武蔵像のところに戻り、坂を下って県道101号線へ右折。県道1号線に合流してさらに坂を上り、峠の茶屋を越えて、少し下って右折。路面の悪い鎌研坂を下りて、荒尾橋から左折し「西の武蔵塚」へ。

画像

そこは武蔵が創始したニ天一流の後継者、寺尾一族の墓所である。

画像

寺尾家は細川家の家臣で、寺尾勝信・信行兄弟は共に武蔵の弟子で、武蔵は、兄・寺尾勝信に『五輪書』、弟・寺尾信行に『兵法三十五箇条』をそれぞれ与えた。どういう理由か知らないが、弟の方が家を継いだらしく、弟・信行の墓が遺っている。

画像

寺尾家の墓の横の自然石の墓は、武蔵の墓で、所謂「武蔵塚」には甲胄のみが埋葬されており、遺骨はここに、という噂も・・・。

画像

島崎町から上熊本、坪井を抜けて、黒髪へ。熊本大学黒髪キャンパスを抜けて、

画像

東側の道を泰勝寺方面へ向かう道の脇に大きな石。

画像

正保2年(1645年)千葉城跡の居宅で62歳の生涯を閉じた武蔵の遺体を入れた棺はこの石の上に置かれ、特禅を通じて武蔵と親交が深かった泰勝寺の春山和尚が引導を渡す(葬儀の際に導師が棺の前に立ち、死者が悟りを得るように法語を唱えること)と、一天にわかにかき曇り、すさまじい雷が一発響きわたったと言われている。 そこからさらに立田山の方に進んで、立田自然公園内の泰勝寺跡へ。

画像

ここには武蔵の供養塔がある。 泰勝寺は細川家の菩提寺で、

画像

供養塔は一代目住職大渕和尚や、武蔵の亡骸に引導を渡した二代目住職春山和尚と同じ場所に立っている。

画像

一見、五輪塔のようにも見えるが、「火輪」が二つ重なっていて、定形でない。 「誰かが、散逸している五輪の各部分をこのように組み合わせて、春山和尚の隣に並べたので、いつとなく、武蔵の供養塔ということになったのではないだろうか」という声もある。 そこから県道337号線を東へ走り、武蔵塚へ。

画像

細川藩候の参勤交代の無事を祈るため、遺言により、甲胄具足に身を固め、両刀を抱き、立姿で葬られていると伝えられる墓。

画像

墓碑には「新免武蔵居士石塔」と刻まれている。 武蔵が創始した「二天一流」は現在でも受け継がれており、「万里一空(万の理屈があっても心はひとつ)」の教えの元、常に修行者であり続ける人たちがいる。

画像
(二天一流の寒稽古でのひとコマ)

陽が傾いて来て、県道337号線を西へ帰った。 本日の走行距離:53.1㎞

画像