くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

城南町の史跡めぐり

テニスで痛めた右腰がまだ本調子でないので、今日も近場をポタリング。 城南町が「史跡の宝庫」というのは以前から、うすうす感じておった。しかし、「城南町」といえば、サイクリングの時、通過するか、よくて塚原古墳公園または塚原歴史民族資料館でトイレ休憩する、あるいは「エベレストキッチン」でネパール料理を食べるくらい。そこで、今日は城南町の主だった史跡をポタリングすることに決める。 犬の散歩をして朝食を食べながらロンドンパラリンピック開会式の選手入場を観てしまい、午前7時過ぎにクロモリロードバイクで出発。 いつものように水前寺公園経由で出水ふれあい通りを南下。東バイパスを横切って田舎道を通り、悠愛病院の近くから浜線バイパスを左折。加勢川を渡って右折。道なりに進んで、蓍町(めどまち)橋を渡る。この橋の嘉島側の欄干の端には「鬼瓦」と思われるオブジェ。

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そして城南町側には「陳内廃寺瓦」と、

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「台付舟形土器」

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のレプリカが置かれている。 いつものように右折してしばらくして左折。城南の田舎道を南下し、旧道に出る。最初の史跡は「隈庄城跡」。南区役所支所の方に左折し坂道をゆっくり登るが、それらしい標識が何もなく、城南中学の先生らしい人に聞くが、「ここらに詳しくないので知らない」と。旧道に戻ってみると総合支所の所に案内板があって、どうももっと西の方。旧道を少し南下して右折し、通行人に聞くと、北側の隈庄幼稚園側に登り口があるが、南側の墓場を通っても登れると。

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短い坂を登って墓場を通り抜けると、城跡と思われるこんもりとした森があり、ロードバイクをかかえて細い階段をのぼると頂上は東屋、トイレが完備した公園(城の鼻公園)になっている。

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お年寄りたちが狭い園内でグラウンドゴルフに熱中しているが、ここが隈庄城であったことを示す碑だの説明板はざっと見に見当たらない。西の方角の見通しは良いが、全体に木々が生い茂り、見通しは悪い。

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ここは甲斐宗運の居城であったが、後で聞いたら、鼻の城公園のところが天守で、墓地の所が二の丸、南区役所支所や城南中学校がある辺りが三の丸であったらしい。隈庄城跡の北側には狭くて急ながらも坂があり、そちらがメインの登り口であるらしく、そこを下ると、やっと案内板がひとつだけあった。

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「まぁ、ここはアピタイザーみたいなもんだから、次、次。」と旧道に戻り、前日、ルートラボで入力したコースを保存したGPSロガーの「フォローコース」機能の画面をチェックしながら次の信号を右折し、黒橋で浜戸川を渡り、城南町阿高に入る。コースに従い、坂を上り進むが、この辺りにあるはずの「阿高貝塚」が見つからない。そのままコースに乗ってゆっくり進んでいると、右側に「御領貝塚」を発見。

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ここは西日本最大級の貝塚で、その頂部には若宮神社が建っている。

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「これぞ貝塚!」という感じで、そこらじゅう貝殻だらけである。

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ここは国指定の貝塚なので、勝手に掘ってはならん!と注意してある。

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そう言われると掘ってみたくなるのが人情で、試しにちょっこし掘ってみると、なるほど、貝殻がザックザック。

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貝殻の他にも色々出てくるそうなので、実際にスコップで掘ってみると面白いかもしれんね。 ところで、貝塚の一角には、通って来た方角を示す「阿高貝塚」とそれに「御領横穴墓群」なる案内板があるが、

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「そんなもん、なかったぞ」と今来た道をひっかえして色々さがすも、それ以降の案内板もなく、やっぱり見つからない。丁度、散歩に通りかかった地元の男性に聞くと、今から行くから付いて来いと。すると少し戻って、四つ角を右に曲がって道なりに進むと、ありました。

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石碑が建っていないとここが貝塚であることがわからない。ここ「阿高貝塚」と川向こうにあった「黒橋貝塚」を併せて「阿高黒橋貝塚」として国が指定したんだとか。「今は草に覆われてしまっているが、土地を掘ったりするとこういうのが出てくる」と隣に住む人が、家の門柱横に置いてある貝殻や土器の破片を見せてくれた。

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こちら阿高黒橋貝塚から出る貝の多くが海の貝で、先ほどの御領貝塚の貝はほとんどが川の貝なんだそうだ。 後で調べたら、阿高黒橋貝塚が約4500年前、御領貝塚が約3000年前だと。 つぎの目的地に向って出発。前日入力したルートにのるために先ほどの「御領貝塚」まで戻って、東に進む。ナフコ城南店の北側に出て、国道266号線を左折。ひのきみ橋を渡って右折し、浜戸川沿いの道に出る。

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途中、「甚九郎山古墳→」という看板があり、

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試しに行ってみるが、やはり期待は裏切られ、行く先は草ぼうぼうで、引き返す。夏は史跡めぐりの季節ではないらしい。気を取り直して、次の目的地、「陳内廃寺跡」を探すが、こちらも案内板がなく、前日入力のルートラボでも対応していない細い道らしく、行き着くのが難しかった。当てをつけて色々探し回るが、道を聞く人もおらず、仕方なく、次の目的地、「熊本市塚原歴史民族資料館」へ。ここは何度も来ている。

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しかし、館内に入るのは初めて。

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入館料200円を払うと、高木さん(後で調べたら館長さんらしい)が館内を詳しく案内してくれた。

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石器の展示。

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縄文土器(阿高土器)の展示。

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弥生土器の展示。

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めど町橋にレプリカがあった台付舟形土器の実物。

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古墳時代の土器。

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大陸から渡来の土器。

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中でも面白い形の、皮袋形土器。北方騎馬民族の皮袋を模したものらしい。

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勾玉(まがたま)。

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そしてこれも、めど町橋にレプリカがあった陳内廃寺の瓦。

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約1時間、城南町の歴史(奈良時代の軍事基地や、城南町出身の『ブラジル移民の父』の事なども)について、熱く説明をしていただいた。 先ほど見つからなかった陳内廃寺跡、陳内瓦窯跡、これから行くつもりだった鶴横穴墓群の判り易い地図をコピーしていただき、館を後にする。 塚原古墳公園内を通り、

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高速道路沿いの道を南下し、まず、昨年も訪れた「メリ穴」へ。

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訪れる人が少ないらしく、穴への道は荒れ放題な様子。

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穴の中は少しモヤがかかっておどろおどろしい感じ。

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そそくさとメリ穴を後にする。

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そこから道なりに進むと案内板があり、すぐに「鶴横穴墓群」がある。

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数十メートル離れた北側の台地の山肌にいくつもの横穴が掘られている。

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そこからさらに道なりに進み、丘陵地帯を越えて豊田小近くのJAの所から右折。鰐瀬に出て、県道32号線との信号を直進して200mほど進むと左に「陳内廃寺痕」の道案内。

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数百メートル進むと右側に「陳内瓦窯跡」の看板が建っており、右折。

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まもなく案内板に従って左折し竹ヤブの中へ。

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たぶんもう絶対来ないような竹ヤブの道を進み、やっと「陳内瓦窯跡」に到着。

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さっき資料館でみた瓦がここで焼かれたことなど、もうどうでもよくなり、窯の跡から退散する。もう一度言うが、夏は史跡めぐりの季節ではない。 先ほどの道に戻って先に進む。200mほど進むと左側に「陳内廃寺跡」。

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熊本で一番古いお寺の跡で、寺の中心となる塔心の基礎石が残っている。史跡は僅かであるが、160m四方の敷地の中に金堂や塔が建ち並ぶ大きなものだったらしい。

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そこから浜戸川沿いの道に出て、

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朝来た道とほぼ同じ道を帰った。

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城南町は本当に「史跡の宝庫」であった。 本日の走行距離:54.7km

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城南の拡大図も

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