午前中はいつものコースで金峰山をロードバイクで走った。
県道101号線で太郎迫から坂を上り、
二の岳・三の岳や、
少し曇のかかる普賢岳を眺めながら
峠の茶屋の鳥越峠から上熊本方面へ下る途中、本妙寺に立ち寄った。
長い参道の、「胸突雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる176段の急勾配の石段の
始まるところにある建物がこの寺の大本堂である。
その山門には「勅願道場」の額が掛けられている。
この「勅願」というのを調べてみると、「天子の勅命を受けた」という意味で、そのような天皇のお墨付きの寺を「勅願寺」と呼び、その本堂を「勅願道場」と呼ぶのだと。 そしてこの額の文字を書したのが東郷平八郎である。
連合艦隊司令長官として臨んだ日露戦争の日本海海戦で、世界屈指の戦力を誇ったロシアのバルチック艦隊を破って日本を勝利に導いた人物だ。 ちなみに「蒙古襲来絵詞」の竹崎季長を顕彰する小川町北海東の平原(ひらばる)公園にも東郷平八郎の書による記念碑が建てられている。
この記念碑には「弓箭(きゅうせん)の道すゝむをもてしやうとす」と書されており、この言葉は季長が蒙古軍に先駆けする時に発した言葉で、「武士の道は、先陣をきることこそ最高の誉れ」という意味があるらしい。 さて、そんな東郷平八郎は、長男の彪(ひょう)を東京の学習院から、わざわざ転校させて熊本の濟々黌に通わせていた。 濟々黌の創始者、佐々友房が、
かつて西南の役を薩軍とともに戦った熊本隊の幹部であったのも少なからず影響しているだろうが、海軍には濟々黌の卒業生が多かったので、長男の海軍兵学校への進学を期待したのだろうとも思われる。 しかし当時の濟々黌の校長、井芹経平(いせり・つねひら)は相手の地位に臆することなく思ったことを口にする性格で、
「東郷さん、息子さんは百姓をさせるのが一番よいなあ」と言い、東郷もそれに従って、済々黌を卒業後、長男を東京高等農学校(現東京農業大学)に入学させた。父親とは違った道へ進んだ温厚な性格の東郷彪は大学を卒業後、百姓ではないけど、農商務省の役人としてその職務を全うしている。
当時の「スーパースター」を父親にもったら、息子は色々と大変だろうなあ。
本日の走行距離:33.3㎞