くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

合志市須屋の歴史に触れる

毎日の自転車通勤では北バイパスの歩道を新南部から、日田街道をオーバーパスする須屋高架橋のところまでを往復している。

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この間、合志市須屋の辺りには史跡がいくつかあるのに気付き、通勤の合間に廻ってきたのでご紹介。

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(結構広い「須屋」)

須屋は熊本平野の北、合志台地の北西部に位置する。地名についてはかつて鎮西八郎為朝が肥後国にあって当地で狩りをし、兎を射たが当たらず、空矢(そらや)になったことに由来するとの伝承がある。

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南北朝の頃の古文書には「須屋」の地名が記されていて、菊池家の老臣の一人として当地を名字の地とする「須屋氏」がいたことが知られている。 熊本電気鉄道 菊池線の「新須屋駅」から、

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直線距離で100mほどの所にある「須屋城跡歴史公園」にはこの地に約200m四方の平城の須屋氏居城

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があったことを伝える案内板が立っており、

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城跡から出た石の祠が置かれている。

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その近くには南北朝時代に菊池氏が創建したと伝えられる「須屋八幡宮」があり、

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隣接して須屋氏の菩提寺である妙泉寺が建立されていた。

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1585年に薩摩から北上してきた島津氏と、竹迫(たかば)城を居城として一帯を支配していた合志氏との間で戦となり、当時の須屋城の主、須屋隆正は合志氏と共に島津氏を迎え撃ち、ここ須屋での激戦の果てに討たれた。 この付近にはその戦での骸が散らばってたそうで、それを供養する塚がいくつもあり、後の時代にそれをまとめて、その戦死者達を弔った慰霊碑(千人墓)が真新しいアパートの陰にちょこんと残されている。

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そこから北バイパスの側道沿いに百数十メートルほど麻生田方面へ進むと真新しい石碑が立っている。

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島津勢との戦いで須屋一族が滅亡した後、江戸時代に細川藩は当地を鉄砲の射撃訓練に使用し、以来、ここにあった塚を「鉄炮塚」と呼ぶようになった。平成11年に国んお道路整備事業によってこの地が整備され、それに伴いこの地で起きた一切が口伝とともに消滅することを憂い、当地の歴史を後世に伝えるべく此処に記念碑を建立した、とのこと。 一方、須屋城の北側の斜面にあった妙泉寺も島津との戦の後に廃寺となり、

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今では、尽きぬ泉を中心とした公園として整備されていて、

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付近の住民の憩いの地となっている。

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午後5時過ぎに職場を出れば、帰路に少し寄り道ができるくらい日が長くなってきた。