くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

増永三左衛門ライド

今朝も寒かったが、午前9時を過ぎると陽射しで寒さも和らいできたので午前10時前にクロモリロードバイクで出発。

先日、熊本城で午砲台として使用された月見櫓跡を見に行ったが、今日は、午砲に使用された大砲の生産地、御船を目指す。

京塚、健軍自衛隊を経由して県道226号線を南下し、上六嘉から左に折れて御船へ。

御船町の先哲のひとり、増永三左衛門の所縁の地を廻った。


増永三左衛門は享和3年(1803年)に御船で酒造を業とし、併せて金鋳場をも経営する商家に生まれた。次男坊だった三左衛門は長ずると分家し、角雑穀屋と称した。大阪に支店を出し肥後の物産の取引をはじめたが、うまく行かず、三年余りで帰郷した。嘉永6年(1853年)にペリー艦隊が浦賀に来航したのを機に、幕府は各藩に海岸防備警備を命じた。これまでの大砲より大型の大砲が必要であったが、それに必要な反射炉などはなかった。そこで増永三左衛門は本家の金鋳場で、昔ながらのたたら製鉄での大砲製造に着手した。


従来の鋳造技術に独創的な工夫を凝らして、西洋製を凌駕するほど高性能な「層成砲(入筒法)」を発明。

目標を遙かに超える飛距離を記録して熊本藩に採用され、約30門の大砲を製造した。この時の大砲は、その後、熊本城内に設置された熊本鎮台に受け継がれ、市民に正午を知らせる「午砲」のための大砲として活躍した。

さて、その明治4年に始まった熊本城の午砲だが、当初使われていた大砲(増永三左衛門製かどうかは不明)は明治10年の西南戦争で使えなくなり、それを知った細川家が増永三左衛門が造った十八斤砲と二十四斤砲の2門の大砲を寄付した。熊本鎮台は二十四斤砲を午砲として使用していたが明治30年(1897年)頃から老朽化し、かわりに十八斤砲が使用された。それも10年余りで使えなくなり、明治40年(1907年)の正月からは大阪の工廠で作られた野砲が昭和17年に金属供与で撤去されるまで午砲として使われた。

同級生が書いたこの本に詳しく書いてあった

御船の旧市街の、街角にあった増永三左衛門の「角雑穀屋」跡を訪れた後は、

駐車場になっていた


三左衛門が慶応3年(1867年)に65歳で亡くなるまで余生を送った「眺世庵」を散策。

その横にある「法光寺」の

裏手の坂を少し上がった所が大砲を製造した金鋳場跡という。

最後は旧市街を南へ抜け、西南戦争の激戦地となった妙見坂から右に折れ、

さらに坂を上がって台地に上がったところにある小高い丘が「不遇塚」と呼ばれる墓地で、

その一角に増永家の墓所がある。

平成30年に整備されており、

古い墓石は倒された状態で整然と並んでいた。

その中に三左衛門の戒名である「寶月院釋西信居士」を探したが残念ながら見つけることはできなかった。


その後は台地を北へ走り、小坂の六地蔵を経由して

坂を下り、御船川を渡って県道226号線を北上して来た道を戻って帰った。

今回のライドには、こちらの書籍と、

こちらの書籍が大変、参考になった。

本日の走行距離:30.4㎞