朝5時半過ぎにカーボンロードバイクで出発し、半年ぶりくらいにウトイチに出かける。
出水ふれあい通りから中の瀬橋を渡り、加勢川沿いの道を西へ走り県道182号線と
ウキウキロードで宇土市に入り、宇土市本町の、先日訪問した円応寺のすぐ近くの船場橋へ。
その橋の袂に平成26年(2014)11月に建立された句碑がある。
「新涼や 水深くみて 橋渡る」
篠原温亭は本名は「英喜」で明治5年、宇土の生まれ。祖父は宇土細川藩の学問所の講師で、父親は漢字の塾を開いていた。
15才の時に父を亡くし家督を継ぐ。篠原家のお寺の住職の勧めで京都本願寺の文学寮(のちの龍谷大学)で学び、その後上京し徳富蘇峰の国民新聞社に入職。30年間新聞人として専念し社会部長に昇格する。
明治30年頃から作句を始め、ホトトギス同人となる。その後に九州日日新聞社(現在の熊本日日新聞社)の俳壇選者となる。大正15年9月2日、脳溢血再発により、東京の自宅にて55才で逝去。高浜虚子から「性温厚寡黙、世に求めず、人と争わず」と評されたという。
宇土の市街地を抜けてからは田舎道を走って
国道266号線をひたすら西へ。
三角港の少し手前で左へ橋を渡って戸馳(とばせ)へ。
アップダウンを走って島の東側へ脚を延ばすと戸馳神社の前の
若宮海水浴場の
入口に横井迦南(かなん)の句碑が立っている。
「不知火を まつかゞり火に うしほよせ」
横井迦南は、明治14年名古屋市に生まれた。明治40年には当時日本が統治していた朝鮮で鉄道局職員となり、ここで句作に励み、異国の風土に刺激を受けた句を多く作った。大正15年には、同地で俳誌「草の実」を発刊し主宰するなどして朝鮮俳句の隆盛を支えた。昭和16年に定年退職で帰国し、鹿児島市へ転居するが、一所に定住できず鹿児島市から霧島市へ、さらに多良木町へと移転を繰り返し、昭和24年三角町へ移り死去までの5年間をそこに過ごし、三角町の俳句同好の士との親交を深めた。また、帰国後の間には「ホトトギス」の同人ともなり、高浜虚子らと親交を結び、熊本の俳誌「阿蘇」の主催も務めた。
迦南が流れ着いた三角町の、戸馳若宮の地で不知火を見て生まれたのがこの句である。それから間もない昭和28年の2月、亡くなった妻の後を追うように迦南は自ら命を絶った。翌昭和29年に三角町の有志が中心となり、迦南の遺徳を偲び、句碑を建立した。
道をヒーコラ戻って国道226号線に入り、三角港、
三角西港を廻り
海岸端の国道57号線をひたすら走る。
赤瀬では前回到達できなかった珍スポット「女石観音」をしつこく探索し、
やっとのことで到達!
ところで、今日は西からの風が強く、
満潮も相まって時折り波のしぶきが舞う国道57号線だった。
住吉からは宇土北部農免道路を走り、次郎兵衛橋を渡って走潟から国道501号線を北上。
平木橋を渡って右折し、緑川沿い、加勢川沿いを走り川尻を抜けて新幹線の高架沿いを北上。
最後は白川沿いを走って帰った。
本日の走行距離:101.7㎞