くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

山の神とペリリュー島

あまり時間がないので、立田山を散策しに行く。

保田窪放水路から白川沿いの遊歩道を走り、

竜神橋を渡って立田配水池の辺りの立ち木に愛車をロックして、

まずは先日、探し出せなかった「西の山の神」を探索に行く。同じように小径を辿って、

分岐と思しき所を左へ進んでゆくと、やっぱり藪に突き当たる。

前回は、ここで方向転換したが、今回は、登山用の地図アプリの「Geographica」をスマホにインストールして、ネットの情報から「西の山の神」の場所を地図アプリ上でマーキングをしておいた。

そうすると、目指す山の神はこのまま50mほど進んだ所らしいので、

藪をかき分けて少し進むと、あらら!また道が開けて、その先の左側に山の神の背部が見えて来た。

少し左へ降りると、狭い広場があり、木造ベンチに掃除用具も置いてあり、文化7年(1810年)建立の山の神様が鎮座している。

お次は道を戻って、配水池から山室方面へ降りる階段の折口の所を案内板に従って進み、

ペリリュー島の守備隊長・中川州男大佐の墓へ。

中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、玉名市の出身で、玉名中学校を卒業後、陸軍士官学校へ進み、帝国陸軍の将校となり、太平洋戦争末期にペリリュー島の守備隊長を務め、米軍との70日を越える激しい戦闘の末、自決した。

ペリリュー島は日本の遥か南方、フィリピンの東の

パラオ共和国の島である。

本島のパラオ島の南に点在する島のひとつで、長さ約10㎞、幅約3㎞、面積約13㎢で、身近な島では上天草市の大矢野町がある大矢野島と同じくらいの島である。

パラオを含む南洋諸島は第一次世界大戦後、日本が委任統治を行ない、パラオではインフラ整備が積極的に行われ、多くの日本人も移住をして発展したが、昭和8年に国際連盟から脱退すると南洋諸島の各地に海軍の関連施設が建設された。

太平洋戦争が始まるとパラオは日本軍の作戦拠点となり、西方のフィリピン戦線と連動して連合軍の攻撃対象となった。

飛行場があるペリリュー島の守備隊長の中川大佐らは、すでに陥落したアッツ、ラバウルやサイパンなどの戦況を分析した結果、無駄な突撃を止め、米軍を可能な限り長時間拘束する事を目的とした戦闘を行うこととした。

ペリリュー島の山間部にはリン鉱石採掘のための坑道が数多く掘られており、これを利用して800以上の洞窟陣地を築き、ゲリラ戦を展開することになった。

米軍の攻撃開始に先だって、中川大佐は、民間人に犠牲者の出ないよう、ペリリュー島の原住民約800名と在留邦人約160名を島から避難させることも忘れなかった。

昭和19年9月12日に米軍の攻撃が始まった。

中川大佐率いるペリリュー島守備隊(約1万2千名)に対して、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に74日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えに米軍の海兵隊に多大の損害を与え「太平洋戦争で最も不名誉な戦い」として米国は戦後長く、その記憶を封印した事が知られている。

米軍の従軍画家が描いたペリリュー島の戦い

中川大佐の妻、光枝夫人は昭和28年にここ立田山の西斜面の墓地に墓標を建て、遺骨の戻ることのなかった夫の菩提を弔い、平成14年9月18日に98歳の生涯を閉じ、共に眠っている。

なお、ペリリュー島の戦闘についてはあまり知らなかったので、日本兵側の記録のみならず、米兵側の記録や写真集なども図書館から借りて、ざっと読んでみたが、太平洋戦争の中でも異質な戦闘で、エピソードや伝承も多く、小さな島の戦闘にしては奥が深くて色々な要素を含んでいるように思えた。

本日の走行距離:その後の街乗りもふくめて約14㎞