くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「刎」の字ライド

朝からカーボンロードバイクで出かけ、加勢川、緑川沿いを走り、

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緑川河口まで行って来た。

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というのも、Google Mapを見ていたら緑川の河口に「サエモンバネ」という表記があるのを見つけたからだ。

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今の時期、緑川沿いの堤防は工事中の箇所が多く、何度か迂回してその場所へ行って見ると、「サエモンバネ」とはコンクリート製の船着場のような構造物であった。

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ネットなどで調べると、正式には「左衛門刎」と書き、江戸時代に細川藩主の命で、馬原左衛門という人が造ったもので、川岸の水の流れを弱めて堤防を守る目的で造られたものらしい。 日常ではあまり目にしないこの「刎(はね)」の字で思い出すのが、土木の神様・加藤清正があちこちの河川に造った「石刎」である。

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玉名市を流れる菊池川のハゼ並木のところとか、

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白川の子飼橋の辺りのように、河川が大きく曲がる箇所にはこの石刎が並んでいるのを観ることができる。

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中でも、熊本駅近くの白川では「権佐刎(ごんざはね)」と名付けられた十数個の石刎が川に向かって並んで突き出ている。

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また、熊本市西区小島の白川沿いの「小島公園」は、この辺りの河川改修前は白川が大きく蛇行した箇所で、かつてそこにあった石刎が綺麗に保存されている。

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一方、甲佐の街はずれ、緑川の美里町側の川岸には「岩下石刎」がある。津留川の合流する箇所の緑川の治水のため、加藤清正によって三つの石刎が築かれた。近年の発掘調査の後、その一部が埋め戻されたり、葦原に覆われたりで、今はその姿を観ることは難しいが、

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その在り処を江戸時代の絵で見ることができる。

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ただし、ここの石刎は他のものとは違い、不連続の石垣堤防で、構造こそ異なるが、洪水の際には、巧みに水の勢いを弱める仕組みになっている、とのこと。 文字通り、石により川の水を刎ねて流れを弱め、川岸を守る「石刎」。 清正公によってもたらされた「石刎」の護岸構造は全国でもおそらく県内にのみ見られるもので、現在でもその技術を活かした護岸工事が県内河川では行われている。

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(六間堰近くの緑川)

さて、「刎(はね)」の字でもうひとつ思い出すのが「刎橋」。木造のものと石造があるようだが、熊本にあるものは石造のものだけで、熊本市から一番近くにあるのが、大津町の「瀬田刎橋」。

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コンクリートで補強されて手摺まで付けられた、一見何気ない橋に見えるが、

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橋の下を注目すると、岸から張り出した数本の石の桁に橋桁が乗っている。

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この張り出した石の事を「刎石(はねいし)」と呼ぶらしい。 大津には森地区にもうひとつ刎橋がある。

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これも補強・改修されて判りにくいが、川岸から突き出た「刎石」が見られる。

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造られた当時の姿を留めているのが、玉名市の山田にある「旧・十六橋」。

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その他にも甲佐町や美里町でもこのタイプの石橋が散見される。 最後はおまけに「刎」の字のつく故事成語で、「刎頸(ふんけい)の交わり」。 Wikipediaによれば、中国の戦国時代に趙で活躍した、宦官の藺相如(りんしょうじょ)と

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(歴史漫画の「キングダム」より)

武人の廉頗(れんぱ)が残した逸話。

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(同じく「キングダム」より)

趙の王に仕える二人は犬猿の中であったが、廉頗が藺相如の事を誤解していた事に気づき、己の浅はかさを悔いて藺相如に謝り、許しを請うと藺相如は快くこれを受け入れ、

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以後、二人は堅い絆で結ばれた。

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(イメージです)

刎頸とは斬首のことで、「お互いのために首を刎ねられるようなことがあっても後悔しないような仲」という成語として用いられる。 ちなみに、わたしめにも仲の良い友達は何人かいるが、そいつのために首を刎ねられるっていうのは、やっぱり御免被りたい。 緑川河口の「左衛門刎」を見学後は海岸線の堤防道路を快適に走り、

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そのまま白川沿いの道に入って帰った。

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本日の走行距離:49.5㎞

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