白川の渡鹿堰から取水した「大井手」。
そこからさらに分水して熊本市南部を潤す三つの井手。
これまでに「一の井手」、「二の井手」を辿ったが、今回は最後の「三の井手」を辿ってみた。 「三の井手」が始まる水門は「二の井手」の水門の50mほど下手にあって、
「二の井手」の50mほど北側を並行して流れて行く。
九品寺を抜けて
熊本大学病院の敷地に入ると長い暗渠となり、
敷地を抜けると顔を出すが
地域医療センターの敷地前から産業道路を過ぎるまでは再び暗渠。 その先、再び顔を出して、
弥生町を縫うように流れる「三の井手」は水鳥も泳いで穏やかな表情を見せて、
日向往還の「乙居(おとい)橋」の辺りでは往時が偲ばれる。
国道3号線の東側を流れるあたりからまた長い暗渠となって広い歩道の一部となっている。
江南中学の向かい側で顔を出すと、
世安交差点の南側で国道3号線をくぐり、薩摩街道沿いに南下。
平田町から日吉に入る頃には水量も少なくなり、
「井手」の面影はなくなってしまった。
さて、三の井手が長い暗渠となって潜り抜けた熊本大学病院では若い頃に4~5年ほど働いていたので、懐かしくなって敷地内を散策してみたが、
当時の建物はすべて倒され、新しく建て直されていた。
その敷地には古墳時代の集落の遺跡があり、
その後は一時国府が置かれた歴史もあり、平成26に竣工した外来棟の工事の際の調査では現在の「三の井手」の3mほど白川寄りにもう1本、井手の遺構があり、そちらの方が加藤清正の築いた井手で、現在の水路は江戸時代後期のものと考えられている。
新しくなった病院の建物の中で、以前からあった「山崎記念館」だけが場所を移して残されていた。
熊本医科大学長兼教授・山崎正董(まさただ)博士を記念した建物で,
国会議事堂の設計にも携わった武田五一氏の設計によるもので国の有形文化財に登録されている。
そしてその建物の横に植えられていた孔子所縁の「学問の樹」とも呼ばれる「楷樹(かいのき)」もちゃんと記念館の横に移植してあり、昔と変わらない樹形で当時の記憶を蘇らせてくれた。