「終戦の日」の今日も暑い一日だった。 陽が落ちてからクロモリロードバイクで出かけて夜の街をポタリング。
新町から坂を上って藤崎台球場の横にある熊本県護国神社へ。
先の大戦での県関係の戦没者を始め、自衛官、消防員など公務で殉職した英霊を祀るこの神社では毎年終戦の日に「英霊追悼祭」が行われ、夜は境内の提灯に火が燈る。
今年は戦後75年。戦争経験者が人口の2割を切ったとテレビのニュースで言っていた。わが家の戦争経験者も14年前に父が、そして今年母が亡くなり戦争経験者はいなくなった。
広島県安芸郡熊野町出身の父は昭和15年に熊本医大を卒業。直ちに第六師団に入隊し、軍医として南方諸島および中国大陸を転戦。
幾度かの死線をくぐり抜けて満州で終戦を迎えた。
その後、シベリアへ4年間抑留されて帰国。
しばらく広島の実家で暮らした後、大学時代の恩師から呼ばれて熊本に戻り、結婚をした際に妻側の姓に改姓した。父は旧姓を「猫屋田」と言い、小さい頃から「ネコ、ネコ!」と呼ばれてからかわれたので、わが子にはそういう思いをさせたくなかったのが改姓の理由らしい。
話は戻って、シベリア抑留中、収容所では強制労働に加えて共産主義化教育も行われており、抑留者の間では密告や吊し上げが横行した。共産主義者に組しなかった父は帰国が遅れ、
先に帰国することになった埼玉出身のFさんに、自分の使って来た飯盒を渡し、「広島の家族に自分が無事でいることをこの飯盒と共に知らせて欲しい」と連絡先も詳しく伝える時間もないままに慌ただしく依頼。ところが、Fさんは帰国後の社会の混乱や生活の多忙さから、飯盒を送り届ける機会を失ってしまっていた。それから70年余り経った昨年の秋、Fさんの家の整理をしていた息子さんが、物置の中から古ぼけた飯盒を発見。事情を聞いて、その飯盒に刻んである名前の「猫屋田」をネット検索したところ、広島県安芸郡熊野町にしかない希少な姓と判明。そこで熊野町役場宛てに手紙を書き、その手紙が熊野町在住の従兄のところを経由して、熊本のわたしのところへ送られてきた。
こうして、「猫屋田軍医」の息子のわたしと、飯盒を託されたFさんの息子さんとが連絡を取り合い、今年の2月の半ばに無事、「家族の元」にその飯盒が戻された。
ちなみに、シベリアから帰還後、紳士服の店を開いたFさんは96歳の現在もお元気で、その後「猫屋田軍医殿」も無事シベリアからの帰還を果たし、姓は変わったけど91年の人生を全うした事を知り、「長年胸につかえていたものがスッキリした」との事。 亡き父とともに波乱の運命を歩んだ「帝国陸軍の飯盒」を手にしながら、「今後は我々の世代が戦争を語り継がねばならない」と感じた。
なお、本文中のシベリア抑留のイラストは「凍りの掌(て)」より。