くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「百年続きますように・・・♪」

サクラの花が終わりを告げ、

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(わが家の近くの「保田窪放水路」)

通学生徒の姿が消えた通勤路では、バトンタッチするように白や薄紅色のハナミズキが花を咲かせている。

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(北バイパス沿い)

この、サクラとハナミズキの関係を知ったのは、一青窈の「ハナミズキ」の曲の背景の事を聞いた時だった。

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時は明治の終わり。訪日の経験のあるアメリカ人の中から「日本のサクラをアメリカの首都・ワシントンにも植えよう」という話が興って、それを聞いた当時のアメリカ大統領夫人ヘレン・タフト氏から大使を通じて日本政府に寄贈の打診があった。

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(当時のファーストレディーのヘレン)

政府は当時の東京市長・尾崎行雄氏にこれを依頼。

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(東京市長時代の尾崎行雄)

サクラの寄贈を託された尾崎は早速、サクラの木約2000本をアメリカに贈ったが、ワシントンDCに到着した頃には、おびただしい数の害虫が発生し、すべての焼却を余儀なくされた。

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(焼却されるサクラ)

その3年後の明治45年(1912年)、尾崎は病害虫対策を十分に施した苗木3020本を再びアメリカに贈った。 その樹は今でもワシントンDCのポトマック河畔で見事な並木となっており、多くの人がサクラの花を楽しみに訪れている。

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ポトマック河畔.jpg

尾崎行雄が桜を贈って3年後の大正四年(1915年)、今度はアメリカ側から感謝のしるしとして、アメリカ原産であるハナミズキ60本が日本に届けられた。 当時、街路樹と言えばイチョウやポプラが主であったが、ハナミズキはそれらに比べ大きくならず、葉が茂って日陰を作りやすく、病害虫に強く、しかも手入れが簡単などの理由で街路樹として全国に広がり、民家の玄関先に植えられることも多くなっていった。

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2015年には当時のアメリカ大使のキャロライン・ケネディーを招いて、アメリカから贈られたハナミズキの原木の残る東京都世田谷区の都立園芸高校で「ハナミズキ100年祭」が行われた。

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ところでこのハナミズキ、原産のアメリカでは「dogwood」と呼ばれており、その理由は諸説ある模様。

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元々ネイティブ・アメリカンたちは、この丈夫なハナミズキの木材を串や短剣(dag)等に加工して使っていたので、「dagwood」と呼ぶようになり、それが「dogwood」に変化したと言う説が一般的らしい。 また、西洋では、ハナミズキについてこんな伝説がある。 ハナミズキは昔、太く丈夫な幹だったので、イエス・キリストを貼り付けにする十字架の材料にされた。ハナミズキの木はそれを深く悲しんだ。すると、復活したイエスが現れ、「もう二度と十字架の材料にされないようしてあげよう」と言われ、幹が太くならない木となったという。

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さらにハナミズキの花をよく見ると、一見花びらに見える4枚の大きなガクは広がると十字架の形になっていて、

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ガクの先端の切れ込みは打ち込まれたクギの跡で、

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白いガクでは、そこにはイエスの血がにじんだように見え、

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中央の花の部はイエスの冠を表している、

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と言われている。 さて、お仕舞いは、サクラの苗を贈った尾崎行雄について。

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(尾崎行雄夫妻)

尾崎は日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた。特に若い頃は「政界の麒麟児」とも呼ばれて国民の人気が高かく、大正時代には男の子に「行雄」と名付けるのが流行ったという。 ちなみにわたしめの父親(大正3年生まれ)の名前も「行雄」。そんでもってそんな父親を超えて伸びて行くようにと「伸行」と名付けられたわたしめ。父親を超えたのは身長だけだった。

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(「行」つながりの親子)

ちゃんちゃん。