くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

堀内豊秋大佐伝

連休なんだけど、時間がとれずに、昨日と今日で近場をポタリング。

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四方寄(よもぎ)町にある「御馬下の角小屋(みまげのかどごや)」は、江戸時代に同地で質屋や酒屋を営み、庄屋をしていた堀内氏(養子縁組で一時「赤木氏」)の住宅であるとともに、

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豊前街道を往来する細川・島津などの大名が休憩所として使用したお茶屋の跡であり、歴代薩摩藩主の他、篤姫や西郷隆盛など、幕末の日本史を彩る人物も立ち寄ったとされている。

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(篤姫が食べたスイカを冷やした井戸)

昭和60年に堀内家から熊本市へ寄贈され、熊本市有形文化財として指定されている。

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一方、この「御馬下の角小屋」は海軍体操の創始者として知られ、日本最初の落下傘部隊の隊長・指揮官である堀内豊秋(とよあき)海軍大佐の生家でもある。

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堀内豊秋は明治23(西暦1900)年9月27日、堀内将直の次男として生まれ、豊作に恵まれた年にちなみ「豊秋」と命名された。 大正2年3月御馬下尋常小学校(現在川上小学校)卒業。

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大正8年3月濟々黌中学(現在の県立濟々黌高校)卒業。

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同年8月海軍兵学校に入校し、大正11年6月に同校を卒業。

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各地で軍人としての経歴を積む一方、デンマーク体操をアレンジした「海軍体操」を考案し、広めた。

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昭和16年9月 補横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(横一特)司令、落下傘部隊隊長となる。

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昭和十七年一月十一日 インドネシア・セレべス島の要衝メナド方面に海軍落下傘部隊司令として降下。

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太平洋戦争緒戦における日本軍の最大の目標はオランダ領東インド(蘭印:現在のインドネシア)の石油資源の獲得にあった。日本軍は「蘭印作戦」と称して昭和16年12月20日のミンダナオ島南部のダバオに上陸したのを初めに各地で作戦を展開。堀内豊秋中佐の落下傘兵334名がメナドのランゴアン飛行場へ空挺降下し制圧した。日本軍としては史上最初の空挺作戦であり、蘭印作戦の中でも象徴的な作戦とされた。

作戦後、堀内豊秋は現地の司令としてインドネシア原住民の心情に十分配慮した軍政を敷いた。 戦争末期には戦線から戻り、海軍兵学校での勤務を経て、昭和20年の終戦を迎えた。 1947年(昭和22年)1月6日 - オランダ政府よりB級戦争犯罪人容疑指名により巣鴨刑務所に収監。 1948年(昭和23年) 1月29日 - オランダ軍により起訴。 5月12日 - 死刑判決。 9月25日 - メナドにおいて死刑となる。 享年47歳。 1965年(昭和40年)2月10日 - メナドより遺骨が帰還。 太平洋戦争緒戦でのオランダ領東インド(現在のインドネシア)におけるオランダの敗北は戦後オランダが同地の植民地を失う決定的な一撃となった。加えて民間人を含むオランダ人捕虜に対する日本軍兵士の虐待行為もあり、第二次世界大戦後のオランダはヨーロッパでも最も反日感情の強い国となった。なお、オランダは多くの日本軍人をB、C級戦犯として処刑した上、1971年の昭和天皇のオランダ訪問の際には卵が投げつけられ、1986年にはベアトリクス女王の訪日が世論の反発により中止となった。日本とオランダは400年にわたる交流の歴史を有していたにもかかわらず、オランダの植民地である同地における戦争は両国間にわだかまりを残した。 生家である「御馬下の角小屋」から東へ自転車で1分ほど走ると路傍に標柱が立っており、

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堀内豊秋大佐はその奥の堀内家の墓地で静かに眠っている。

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(今回の参考書)

今回の走行距離:昨日と今日で40㎞くらい