くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

懐良(かねなが)親王ライド

南北朝時代の肥後の国と言えば、菊池武光公が思い浮かぶが、忘れてはいけないのが懐良(かねなが)親王である。 菊池や八代で「懐良親王」の名前の載った案内板を何度か見たことがあったので、ネットで事前調査して、数日前の木曜日に菊池、そして今日は八代へライド。

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(めど町橋にて)

14世紀の鎌倉幕府滅亡後、朝廷は足利尊氏側の北朝

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と後醍醐天皇の南朝に分かれ、

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覇権を争っていた。

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徐々に優位に立った北朝に対し、後醍醐天皇は自らの皇子たちを各地に派遣し、その地の有力な地侍達を取り込むことによって勢力の回復を図った。

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九州には懐良(かねなが)親王が「征西将軍」として赴任。ただし、征西将軍とはいえ、当時の懐良親王は幼年(8歳くらい)で、従者もわずかに12名。 しかも当時(1333年)、すでに九州北部は大宰府を中心として北朝の勢力圏内にあったため懐良親王は伊予の国を経由し、豊後、日向の沿岸を南下し、興国3年(1342年)に薩摩に上陸した。 正平2年(1347年)に大宰府を目指して北上し、八代では名和氏に迎えられ、その勢力を増していった。この時滞在した八代市高田の屋敷跡地には「懐良親王御所跡」の石碑が建っている。

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八代を発した懐良親王は、正平3年(1348年)1月に宇土で菊池武光(たけみつ)と合流し菊池へ入った。

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菊池城があった菊池神社の北東の小高い丘には当時、守山城があり、

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親王の在所となり、現在は雲上神社となり、境内には石碑が建てられている。

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菊池神社の参道から続く「御所通り」には懐良親王のお手植えと伝えられる樹齢約600年のムクの木が枝を鉄柱で支えられながらも樹勢を保っている。

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その迎え側には能楽堂があって、親王に奉納した「猿楽」を起源とする「松囃子能」が現在でも奉納されている。

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正平16年(1361年)に大宰府攻略に成功、10年あまり九州を支配。 その後、大宰府が陥落すると、懐良親王は征西将軍職を、甥にあたる良成(ながなり)親王に譲り、

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(託麻原の戦跡のレリーフの良成親王)

自身は筑後国矢部に隠退し、弘和3年(1383年)3月27日に50歳あまりで没した。

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(懐良親王)

良成親王率いる征西府は、菊池、宇土と移り、宇土陥落後は八代市高田に最後の拠点を構えた。

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この頃は、室町幕府も3代将軍・義満の時代となり、元中9年(1392年)の南北朝合体を迎えるまでの3年間、南朝最後の拠点を守り通した。 八代妙見宮の参道から左折して坂を上ったところにある「御小袖塚」は懐良親王が父・後醍醐天皇と母君の追福のための建てたお墓。

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(向かって左は天皇、右は御生母の塔)

親王が吉野をたつ際に、形見にもらった小袖をここに埋められたことから、「御小袖塚」と呼ばれている。

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そして、八代妙見宮の先から県道155号線へ左折して、少し走ったところにある「懐良親王陵」は、

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良成親王の命により菊地武朝が造営したもの。

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御陵内には、懐良親王直筆銘の宝篋印塔が建っている。

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そして南側の山肌の中腹には菩提寺の悟真寺がひっそりと建っている。

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ちなみに、明治になって八代城の跡地に建てられた八代宮は、

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懐良親王を主祭神とし、良成親王を配祀しており、地元では「将軍さん」の愛称で呼ばれている。

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40年余りを戦乱の九州で暮らした親王に思いを馳せながら来た道を帰った。

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(めど町橋にて)

本日の走行距離:93.3km

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木曜日の走行距離:67.6㎞

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