くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

中村汀女ポタリング

京町の実家の母と木曜午後7時からのRKK「プレバト」の俳句の話をしていて、中村汀女さんの話が出た。 母は祖母とともに同窓生でもある中村汀女さんが主宰していた「風花」の熊本支部に所属していて、当時の思い出話などを興味深く聞いた。

画像
(実家にあった直筆の句)

そこで母から聞いた話と、ネットでググった情報を元に昼飯の後、熊本市内の中村汀女さんの所縁の土地を廻ることにする。

昭和を代表する女流俳人の中村汀女の本名は斎藤破魔子。明治33年(1900年)4月、熊本市の江津湖畔の斎藤家の一人娘として生まれた。斎藤家は付近の地主で、私財を投じて架けた橋は「斉藤橋」と呼ばれ、

画像
(わたしが高校生の頃までは木造の狭い橋だった)

その後、東バイパス建設に際して架けなおされ、

画像

現在でもその名が残っている。

画像

当時の「藪の内町(九州郵政局とホテルキャッスルにまたがる地)」にあった熊本女学校(現・熊本第一高校)

画像

を卒業した18歳の冬から俳句を作り始め、結婚後、夫の転勤で熊本を離れて10年間ほど句作を中断。昭和7年(1932)、再び句作を始め高浜虚子に師事。

画像
(江津湖畔の芭蕉園にある虚子の句碑、「縦横に 水のながれや 芭蕉林」)

昭和9年(1934)「ホトトギス」同人となり、俳壇に確固たる地位を築き、昭和63年(1988)、88歳で亡くなるまで多くの句を残した。

その多くは主婦として母親としての日常を題材としたもので、一部からは揶揄をこめて「台所俳句」と評されたこともあったが、汀女は「それでよし」と胸を張って毅然と受け止めた。

家庭的な日常の中にも、深い叙情性をおびた汀女の句は家庭婦人らの心を掴み、多くの女性がテレビやラジオを通しても汀女から学んだ。

こうして、それまでは主に男性のものであった俳句を女性に広げた功績は大きいものがあるとのことらしい。

画像

まず訪れたのが、いつの間にやら男子生徒が全体の4割を占めるようになった第一高校の体育館の北側にある句碑。

画像
(「夏雲の 湧きてさだまる 心あり」)

次に上江津湖の北側にある「くまもと文学・歴史館」へ行き、紙製の中村汀女人形に挨拶して、

画像

汀女に関する展示物で勉強をして周辺散策マップをゲット。

画像

冬景色の江津湖の湖畔を巡る。

画像

芭蕉園の南側にある広場の句碑

画像
(「とどまれば あたりにふゆる 蜻蛉かな」、実家にあった色紙はこの句碑の除幕式の際にいただいたものらしい)

この句は横浜在住時代のものらしいけど、江津湖の風情に合っていると思う。

 

上江津湖の終端である東バイパス手前へ。

画像
(「つゝじ咲く 母の暮しに 加はりし」)

元々、対岸の汀女さんの生家の庭にあったものをここに移設したとのこと。

 

そして画図小学校へ。

画像
(「浮草の 寄する汀(みぎわ)や 阿蘇は雪」)

ここは汀女の母校で、同校の敷地内を流れる小川沿いの「汀女の小道」や

画像

「汀女園」を整備してある。

画像

そして画図校区まちづくり委員会主催の「汀女顕彰俳句大会」の表彰式会場になるなど校をあげて俳句に力を入れている。

画像

さらには、「小学校・中学校用道徳教育熊本市郷土読み物資料」などで道徳教育にも利用しているらしい。

 

最後に水前寺成趣園。

画像

句碑はないけど、ここで詠まれた「朝蝉や 水輪百千 みな清水」は、

画像

くまもと果房の「銘菓・水前寺」のCMソングにも使われ、お菓子のパッケージはこの句をモチーフとしている。

画像

今日も、韓国語や中国語が飛び交う庭園を後にして帰路についた。

画像

本日の走行距離:18.9㎞

画像