4月20日の城東会戦で敗れた薩軍は政府軍を小競り合いを繰り返しながら矢部町に集結した。
4月21日、西郷隆盛ら薩軍幹部は備前屋(現・通潤酒造)で今後の方針を検討し、「人吉で再起を計る」ということに決定した。
人吉・球磨地方は、鎌倉時代から江戸時代まで、700年間の長きにわたり相良氏が守り続けた歴史ある城下町である。 以前から薩摩との関係が深く、西南戦争においても薩軍に味方するものも多く、「人吉隊」を組織して参戦し、田原坂などで政府軍と戦っていた。また、日奈久に上陸し八代を支配下に置いた政府軍の「衝背軍」を攻略すべく、すでに辺見・別府隊が人吉を拠点としていた。 4月22日、西郷以下薩軍本隊は矢部を出発し、
馬見原、
五ヶ瀬を経て、国見峠を越えて
4月25日には椎葉に到着。
不土野峠を越えて
4月29日に人吉に入った。 人吉城は廃藩置県の際にすでに取り壊されていたので、砲台を置き、
本営は永国寺とした。
ちなみに、このお寺は今では「ゆうれい寺」としての方が有名。
本堂内には西郷隆盛の書や、
位牌が置かれている。
球磨盆地を囲む山々を防壁とし持久戦を展開し、機を見て周辺の豊後、大口、佐敷へ攻め込み、勢力を拡大する戦法をとった。 永国寺の裏山には薩軍が弾薬や食料を蓄えた洞穴が「西郷隆盛の塩蔵跡」として残されている。
西郷隆盛が宿泊した地には現在、武家屋敷が移設されており、当時を偲ぶことができる。
人吉での薩軍の兵力は約3000。当初に比べると士気は落ち、援軍として参加した「党薩諸隊」は勿論、薩軍本隊の中にも離反する兵士が出るようになってきた。 また、新たな「人吉隊」の募集にも応ずる者は少なく、薩軍幹部が目論んだような兵力の増強はできなかった。
一方、城東会戦の後、薩軍を追った政府軍は険しい脊梁地帯の広範囲に旅団を送り込んだが、それらの指揮・配置・命令伝達に混乱を来たし、決定的な掃討戦ができずにいた。 しかし、やがて薩軍の動きを掴み、さらに兵力を増強整備。 5月下旬には球磨盆地を北側から攻め込む態勢を整え、佐敷から山越え、球磨川沿い、肥後峠越え、五木越道、不土野峠越えなどでじりじりと薩軍の守備隊を後退させた。
そして人吉・球磨盆地内に入ると現在のJR人吉駅の裏手にある村山に砲台を置き、その東北に位置する瓦屋町に本営を置いた。
6月1日、村山の砲台から人吉城内に置かれた薩軍の陣地に向かって砲撃が始まり、
市街地は全域に渡って戦場となり炎に包まれた。
たちまち劣勢となった薩軍は球磨川を渡す大橋を落として大畑(おこば)方面へ退却した。 さらに政府軍の追撃に加久藤峠を越えて敗走し、こうして西南戦争の主戦場は熊本から宮崎方面へと移って行った。 140年前の2月から6月に渡って熊本県下の広範囲に影響を及ぼした西南戦争。 時間軸をほぼ同じにして熊本県下の西南戦争の史跡を紹介するシリーズもこれにて終了。 これまで断片的にしか知らなかった各地での戦闘を繋ぎ合わせて、その全体の流れを知ることができた。 もう一度、振り返ってみると・・・ 川尻~熊本城総攻撃 http://eco-and-health.at.webry.info/201701/article_6.html 植木の戦いから高瀬会戦 http://eco-and-health.at.webry.info/201702/article_5.html 田原坂の戦い http://eco-and-health.at.webry.info/201703/article_4.html 山鹿の戦い http://eco-and-health.at.webry.info/201703/article_5.html 政府軍の挟み撃ち http://eco-and-health.at.webry.info/201703/article_7.html 菊池の戦い http://eco-and-health.at.webry.info/201704/article_3.html 阿蘇の戦い http://eco-and-health.at.webry.info/201704/article_4.html 熊本城の解放 http://eco-and-health.at.webry.info/201704/article_5.html 城東会戦 http://eco-and-health.at.webry.info/201704/article_7.html そして今回の人吉攻防戦 ・・・いや~、よく勉強して、よく走った。