くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

西南戦争史跡巡り・其の壱

鹿児島県人のおふたり、こくろさんとヘイホーさんとサイクリング。 史跡巡りにお連れしようと考え、それならやっぱり西南戦争の戦跡は外せないだろうと、川尻から熊本城周辺を巡ることにする。 流通団地の南側で待ち合わせ、
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木部川、加勢川沿いを川尻へ。 まず訪れたのは、延寿寺。
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明治10年西南戦争では西郷隆盛が軍隊を率いて2月21日に川尻に入り、この寺に大本営をおいた。
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その後、この寺は熊本城攻撃を行う薩軍への物資の配給などをおこなう兵站(へいたん)基地となり、同時に野戦病院となった。 川尻の寺では、薩軍との関わりを持って後々面倒な事態になることを恐れたために多くの寺が仮埋葬を拒んだが、延寿寺の当時の住職は「死者を成仏させ、供養をするのは僧の務め」と、3月2日より4月4日までに薩軍の戦死者853人を寺領に埋葬した。
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その全員の名を記した真新しい慰霊碑が建てられている。
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仮埋葬された遺骨のほとんどはその後、故郷の家族によって引き取られたものの、そのような経緯もあって、この延寿寺では、「薩軍戦没者慰霊祭」が現在も毎年4月に行われている。
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次に訪れたのは「鰻の若松屋」の隣にある「南洲翁本営跡」。
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西郷はここに宿泊したらしいが、一説によると、本営はここに置かれたのではなく、その先の泰養寺であったというが、
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その泰養寺には一切の説明書きなどがなく、真偽のほどは不明。 ところで、ここ川尻は加勢川沿いに位置し、緑川にも近く、古くから港町や宿場町など、流通の中心地として栄えた。
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このため、藩の年貢米の蔵が置かれ、
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奉行所も置かれた。
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当時の奉行は薩軍の略奪を恐れて自警団的な「川尻鎮撫隊」を作り、現在の川尻小学校の校内に鎮撫隊の本営跡を置いて治安の維持に努めた。
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ここで川尻を後にして、JR熊本駅方面へとペダルを漕ぐ。 西郷は2月22日からの熊本城攻撃に際し、23日から本営を北岡神社に移した。
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戦が膠着状態となると熊本城からの砲撃が北岡神社周辺に集中するに至り、3月11日に本営を二本木神社に移した。
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残念ながら本営跡を示す石碑は倒れたまま。
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続いて、当時は「祇園山」とよばれた花岡山へ、ミニヒルクライム
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花岡山の中腹には砲台を築いて大砲を置き、熊本城に睨みを利かせたが、実際には砲弾は新町付近にしか届かなかったと言われる。
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薩軍の熊本城攻撃は周辺各地で行われたが、中でも激戦だったのが段山(だにやま)であった。
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「ゆうかファミリーロード」の起点のすぐ近くに
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西南戦争 段山の戦い」と「薩軍戦死者慰霊碑」が並んで建ててあり、昨年の地震で倒壊したが、その後改修してあった。
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熊本城周辺のその他の地域での激戦の跡はいまではほとんど残っていないが、京町の付属小学校の裏にある光永寺の山門には鉄砲玉の穴が残っている。
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薩軍総勢約14000人に対して熊本城を護る鎮台兵とその家族約4000人。
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加藤清正が心血を注いだ熊本城の守りは堅固で、
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薩軍が手間取っている間に官軍の援軍本隊が小倉から南下したため、3月になると主戦場は北へと移って行った。 最後に、城を守り抜いた熊本鎮台司令長官 谷千城(たに たてき)の姿を千葉城橋(ちばじょうばし)と厩橋(うまやばし)の間に位置する高橋公園に観に行った。
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その頃から空模様も怪しくなってきて、「インド食堂」でランチをして解散。
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本日の走行距離:37.3㎞
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