くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

隈庄飛行場跡散策

先日、ネットのニュースで見た記事から南区城南町舞原の「隈庄(くまのしょう)飛行場跡」を見に行ってきた。

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かつての滑走路の南端付近に位置する「火の君総合文化センター」の駐車場には記念碑が建てられていて、

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碑の裏面の説明書きを要約すると・・・ 隈庄飛行場は昭和14年(1939年)から建設が始まり、昭和16年6月、大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊が開設され、以来4年間に約1000名のパイロットが巣立ったが、その多くは大空に散華した。

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戦局の推移に伴い飛行場は更に拡張整備され、実戦体勢に入り昭和20年4月、教育隊は移転し、替わって飛行第110戦隊の基地となった。この戦隊は最新鋭重爆撃機飛龍

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で編成された陸軍爆撃隊の中核部隊で連夜沖縄作戦(特別攻撃隊)に出撃して多くの若者達が還らぬ人となった。然し戦いは好転せず、ついに昭和20年8月15日終戦を迎えた・・・。 教育隊の兵舎

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があった場所は戦後、城南病院が建物を使用し、

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その正門がつい最近まで残っていたが、同病院の新築とともに撤去された。

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病院の敷地内に残る「心字池」。

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沖縄へ出撃する若い兵士らがここで別れの杯を交わしたと言う。

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周辺の住宅地には爆薬庫、

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油倉庫などの戦争遺跡が今も残る。

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そんな隈庄飛行場に着任していたのが、後に世界的な俳優となる三船敏郎である。

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熊日のネット版「くまにちコム」によると、俳優の故三船敏郎さんの軍人時代とみられる写真を調べていた市民団体「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」は13日までに、熊本市南区城南町の旧陸軍隈庄飛行場にいたころに撮影された可能性が高いと発表した。

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三船さんと同時期に隈庄飛行場に所属していた隊員の証言などから、「昭和20年7月1日、演劇を披露した25歳の三船さんの可能性が高い」と判断したと言う。 三船敏郎は大正6年、日本支配下の中国で生まれた。大連中学校を卒業後、昭和15年、徴兵にて兵役に就いた。父親が開業していた写真館の手伝いをしており、写真の腕を腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。

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上官から家族の写真を撮ってほしいと呼び出され、その出来が良かったので、教育隊に残るように言われ、戦地に行くのを免れた。昭和16年には滋賀県の八日市飛行場・第八航空教育隊に写真工手として配属された。昭和20年の戦争末期に隈庄飛行場に配属され、出撃前の特攻隊員の遺影を撮る業務に従事した。 以下は三船さんのインタビューから。 「熊本県の隅庄にある特攻隊基地にやらされました。 若い学徒兵、少年航空兵などを訓練したわけです。いまでも、あのころの何か惨めだか、何か高揚した緊張した場面の数々を思い出します。 毎朝、沖縄へ飛ぶ飛行機は二機か三機。それも、日本中から、少しイカれた故障機を寄せ集めて整備し、出撃されるんですからね。機長、副機長は、おおむね学徒出陣組。乗員は少年航空兵。みんな若くて純真でした。 出撃の前夜など、ある者はヒロポン(覚醒剤)を打ち水盆をくらい、またある者は瞑想にふけるなど、死を覚悟して人生いかに生きるべきかを彼らなりに悩んでいたんです。 こうした連中は、一度飛び立ったら、絶対帰ってきません。 その点、下士官あがりの連中の中には『エンジンが少しおかしいぞ』といって帰ってくる。その人たちには、女房子供もいるし、それなりに理由は分かるんですが・・・。」 (「人生は甘いもんじゃあない」より) 終戦を隈庄飛行場で迎え、その後、先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)を頼って上京し、撮影助手採用を願い出た。ところが撮影助手には空きがなく、大山に勧められて受けた俳優志願の面接で補欠採用となり、役者への道を進むこととなった・・・。

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以下はWikipediaより 軍隊では写真班で、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、少年兵の教育係も任された。 自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなる。 敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐したという。 息子である史郎の話によると、明日出陣する少年兵には、スキヤキを作って食べさせたと涙を流して語ったという。 また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたという。 後に、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、海外のマスコミの取材に対して語った。 世界的な俳優の悲しい記憶に想いを寄せて滑走路の跡地を走った。

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本日の走行距離:37.3㎞

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