午前8時過ぎにクロモリロードバイクで出発。藤崎宮を経由して県道1号線を走り県道31号線に進んで、貢町の交差点を左折して「ゆうかファミリーロード」を走る。
硯川から再び県道31号線に入ってアップダウンを走り、国道201号線に突き当たる所のセブンイレブンでエネルギー補給。 国道201号線を玉名に向かって走るが、玉名で昼食を摂るには早すぎるので、青木地区にある熊野座神社に回り道。
ここは「磨崖梵字群」が有名なんだそうな。
それと、「ナギの木」も有名らしいが、残念ながら落葉樹。
そこから西へ走り、新幹線の新玉名駅
を経由して市街地へ来たが、まだ早いので、高瀬地区にある大覚寺の宝篋印塔を見たり、
高瀬裏川緑地公園を散策したり。
やがて11時になったので、「高瀬蔵」の
二階にあるインド料理の「ビスヌ」へ。
ランチセットをいただく。
ここは少し高いけど、ナンがモチモチしていて美味しい。 インド料理屋にはあちこち行くが、ここのナンが一番美味しいと思っている。 ところで、カレーが大好きな割にはインドの事を何も知らないわたしめにとっては、「インドカリーにナンは付き物」と思っていたところ、どうも違うらしい。 インド生活の経験豊かなインド食堂のマスターに伺ったところ、なんと、インド人はあまりナンを食べないんだとか。 その理由は、まず、一般家庭や通常のレストランではナンを焼くためのタンドール窯を設置するスペースがもったいないし、室内が暑くなってたまらないから。
それに、ナンの材料となる精製した小麦粉がかなり高価だから。 それでインドの人は全粒粉で作る、薄い円形の「チャパティー」を通常食べるんだとか。 いかんいかん、今日は「ナン」の話ではなくて、「仇討ち」の話だった。 繁根木(はねぎ)川沿いの県道4号線を上流に走り、
石貫地区に入り、右手に案内の標識が目に入る。
ここで「日本最後の正式な仇討ち」があったらしいので見に来たのだ。路地を100m余り進むと、何やら薄暗い谷間の林の中へ。
そこが「日本最後の正式な仇討ち」が行われた場所らしい。
その奥には「太刀洗いの池」というのもある。
案内板によると・・・ 幕末の文久元年(1861)年江戸の細川藩邸で、入佐唯右衛門が下田平八と中津喜平の二人を殺し、逐電(逃げて姿を隠す事)した。 残された平八の妻、田鶴(たづ)、喜平の妻、寿の(じゅの)の両家では、苦しい生活に追われながらも仇討ちを誓い再び家名を立てんと遺児らには文武に励ませた。 10年後、唯右衛門が山口藩に捕らえられ、熊本藩に送られることが分かった。田鶴や寿の、平八の遺児らは、護送の役人(石原運四郎)に頼んで、ここ宇津呂木谷に連れ込んでもらい本懐を遂げた。時に明治4年4月16日(1871)年、二年後の明治6年2月7日に太政管布告で仇討ち禁止令公布されたので、これが日本最後の仇討ちとなった。
補足すると、この事件から3か月後、熊本藩はこの仇討ちを賞賛して家督相続を許し、金子(きんす)を与えた。全国的に見ると、この後にも数件の仇討ちがあったが、仇を討った方も犯罪として裁かれており、「日本最後の正式な仇討ち」と認定されていらしい。 県道に戻り、西へ800mほど走った所にある廣福禅寺へ。
仇を討たれた入佐唯右衛門はここに仮埋葬された。本堂の裏手の、その場所に供養塔が建てられている。
帰路は県道4号線をさらに北上し、
県道3号線へ右折。
このまま県道3号線を走って、江田の交差点を右折して道の駅きくすいの前にあるセブンイレブンで休憩。 その後、江田川沿いの河川管理道路をしばらく走り、
萩原地区から再び県道3号線を植木方面へ。
植木から高速沿いの道に入り、
須屋を経由して坪井川沿いの道に入り、熊大黒髪キャンパスを突き抜けて桜山神社へ。
ここは神風連の乱で命を落とした120余名の志士たちの霊が眠っていることで知られている。
「日本最後の正式な仇討ち」で重要な一役を担った護送の役人の石原運四郎。彼の霊もここで眠っている。
最後の仇討ちに関わった人達の数奇な運命に想いを馳せた。 本日の走行距離:95.6㎞
なお、今回の仇討ちについては、このサイトが一番詳しい。