今朝はこの秋一番の冷え込みなので、お日様が上がるまで待つことにして、その間に行き先を検討。 宇土半島、不知火町の古屋敷地区のミステリー・・・「すじの神様」、「丸目蔵人(まるめくらんど)の墓」は突き止めたけれど、鍬を抱えた銅像の「松田喜一先生」はまだであった。
Benbowさんによると、「昭和の農聖」と呼ばれた人で、八代には「松田神社」なるものがあるらしい。 さらにネットで調べると、松橋町には「生誕の地」の記念碑も建っていることなども判明し、それらを訪ねてみることにする。 午前9時過ぎにクロモリロードバイクで出発。水前寺公園から出水ふれあい通りに入り、画図の田舎を走って中の瀬橋で加勢川を渡る。
めど町橋で緑川を渡り、
田舎道を抜けて城南の旧道を走り、左折して浜戸川沿いの道を走る。
鰐瀬地区を抜けて県道32号線を南下。豊野の上り坂の手前で左へ折れ、山崎橋、
御手洗水源
を経由し豊野を抜ける。
県道32号線に戻り、海東を経由して小川町に入り、左折して砂川を渡って「道の駅竜北」で燃料補給。
国道3号線と並行な田舎道を走り、
氷川を渡って右折し、県道156から県道42号線に入り、
大鞘川を渡って右折。道なりに進んで県道338号線との交差点を直進すると右側に目指す「松田神社」。
Wikipediaによると、松田喜一とは・・・
「熊本県出身の日本の農業研究者・教育者・著述家である。農業試験場技師時代に松田式麦作法を考案するなど、革新的な食料増産技術の発展に貢献。 自ら日本初の民間農業実習所を開き48年間に亘り生徒を受け入れ後進育成に献身するなど、明治から昭和にかけて日本の農業発展に貢献した。 また、全国各地に赴き講演を開き農業技術・精神の普及に尽くした。実習所で直接教育を受けた生徒は約三千六百名、講演で講習を受けた者は延べ約四万名に及ぶ。その傍ら雑誌『農友』を自ら執筆、50年間に亘り刊行し、その他50冊におよぶ著書も執筆した。『農友』は毎号皇室にも届けられ、昭和天皇の巡幸、各皇族の視察を受けた。藍綬褒章・勲四等瑞宝章受賞、従五位。「昭和の農聖」と謳われた。」 とある。エピソードや語録も多く、石碑にも・・・。
「今回のTPP締結について、松田喜一先生ならどんな言葉を発するだろうか?」とか思いながらお参りをして松田神社を後にする。 路側帯の狭い県道338号線を大型トラックにおののきながら松橋方面へ。
途中、セブンイレブンで栄養補給して松橋町の東松崎地区に入って案内板に従って右折すると、
かなり大きな「松田喜一先生生誕の地」の記念碑。
そこから300mほど北へ進むと右側の墓地に松田喜一先生の墓。
訓示が彫ってある。
その後、大野川沿いの道に入り、松橋高校の南側にある「大野川河川改修記念公園」へ。
公園の一角に「寄田(よっだ)の底井樋」の展示。
「底井樋」とは、サイフォンの原理を応用して川底をアンダーパスする水路で、ここでは大野川の水を隣接する浅川の川底を横断して南側の寄田地区への灌漑をしたもの。 1852年に私財を投じでこの底井樋を造ったのが松田喜一先生の祖先の惣領・松田喜七。公園の前に記念碑も建っていた。
大野川沿いの道を上流に走り、国道3号線沿いの道に出て左折。
しばらく走って「ウキウキロード」へ右折。
「サンサンうきっ子」で小休止して
県道182号線を北上。 釈迦堂橋を渡って加勢川沿いの道へ右折。
中の瀬橋へ左折して朝来た道を帰った。
本日の走行距離:88.1㎞