くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

曇り空の放牛地蔵めぐり

期待に反して危うげな空模様なので、市内をポタリング。 昨晩、ケーブルテレビの地元局チャンネルの「ひご・旅」で「熊本各地に百体以上の石仏を作った僧・放牛(ほうぎゅう)」をやっていたので、そこで紹介されたスポットを廻ることにする。 その前に、「放牛」とは・・・

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細川藩主五代綱利の頃、古大工町(鍛冶屋町との説もある)に鍛冶屋の親子が住んでいた。 父親は大酒飲みの仕事嫌いであった。親孝行の息子は年端も行かぬのに、毎日行商に出ては酒を買って帰り、父親に飲ませていた。

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(あくまでもイメージです)

或る日の事、息子は売り上げが悪く、酒を買って帰ることができなかった。怒った父親は表に佇んでいる息子めがけて火吹き竹を投げつけた。

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(すいません、あくまでもイメージです)

それが不運にも丁度家の前を通りかかった大矢野源左衛門と言う侍の顔にあたり、父親はその場で無礼討ちとなった。 子どもは、父親が殺されたのは自分の不孝のせいだとして、菩提を弔うために仏門に入り、名を「放牛」と改め、十年間に石仏百体の建立を発願し、これを成就した。(城西校区まちづくり委員会の説明文より) この逸話には他にいくつかのバリエーションがある。 「二人の子供が表口で喧嘩をしてたのを父親が何度も注意したけどやめないので手に持っていた火吹竹を息子に投げ、それが不運にも侍の大矢野源左衛門の顔にあたり・・・」というものや、父親の死のエピソードなどなく、ただ、「放牛」という僧が当時住んでいて、その頃肥後では飢饉や洪水が多く、人々の生活は困窮を極めており、心を痛めた放牛は精神的な救済をはかるため各地に石仏の建立をすすめた、というもの等々。 兎にも角にも、放牛が建立した第1体目の地蔵菩薩は、(日向往還の時も行ったけど)田迎小学校の校門前にある。

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続いて、熊本市内に遺された多くの放牛地蔵の中から番組がピックアップしたのは、白川左岸の長六橋と泰平橋の間にある阿蘇大明神社の境内にある地蔵堂。

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ここには第3体目

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と第27体目

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の放牛地蔵がある。 放牛地蔵には道歌が彫られているものがあり、第3体目には「くわこ(過去)よりも未来に通る一休み 雨降らば降れ 風吹けば吹け」と彫られているらしい。 その100m余り上手の県営本山団地の先の路地を右に入った所にも地蔵堂。

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ここには第56体の放牛地蔵。

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「雨あられ 雪や氷と へだつれど とくれば同じ 谷川の水」と彫られているらしい。 大江市立図書館の手前の、この日もノンベジタリアン・カレーセットを堪能したインド食堂。

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その100mほど北側にある「是法(ぜほう)神社」。

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この境内の地蔵堂

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には第92体目。

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「親のまへ 不孝のみにて 神ほとけ たすけ給えと いうぞおかしき」と彫られているらしい。 そして、旧国道3号線。京町の四つ角から附属小学校を過ぎて出町に入った左側にある往生院。

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ここでは記念すべき第100体目の放牛地蔵が六地蔵(近年になって建立)を従えている。

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放牛が建立した中では最も大きい地蔵である。

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最後に、先週も行ったけど、横手町。井芹川にかかる新四方池(よもいけ)橋を渡って数十メートル行った右側。

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この狭い階段をあがり、細い道を百数十メートル歩くと、左手に、放牛のお墓。

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お地蔵様が墓石になっている。

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10年間で熊本の各地に107体の地蔵を建立した放牛。その死を悼んで地元の人たちは終焉の地に地蔵の形のお墓を建て、現在でも墓前祭が行われているという。 なお、放牛地蔵(放牛石仏)に関しては、何といっても、このHPが一番! 気付いていなかったけど、自転車で走る道すがらにも佇んでいる放牛地蔵。 われわれ自転車乗りも見守ってくれているに違いないね。

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本日の走行距離:35.0㎞

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