くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「神」と呼ばれる軍人の所縁の地を訪ねて

近々、豊後竹田を訪ねる機会があるので見どころを探していたら、軍神・広瀬武夫中佐を祀る「広瀬神社」が目に入った。 「軍神」と称される軍人なら熊本にも、松尾敬宇(けいう)中佐がいる(※当時の海軍が公式に認めた「軍神」ではありません。詳しくは文末をご覧ください)。

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熊本県山鹿市久原出身。鹿本中学を経て、海軍兵学校を卒業(66期)。特殊潜航艇の訓練を受け、1942年(昭和17年)5月、シドニー湾攻撃に第二次特別攻撃部隊の特殊潜航艇艇長として出撃し、戦死した。 今日は松尾中佐の所縁の地を自転車で廻ることにする。 午前8時前にクロモリロードバイクで出発。東バイパスから北バイパスを走る。

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国道387号線(日田街道)に突き当り右折。すぐに県道37号線へ左折して、次の信号で左折して高速道路沿いの道路を走る。

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植木工業団地を抜けたところにあるソバ畑のほとんどが太陽光発電のメガソーラーになっていて、ちょっとガッカリ。

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小野川沿いの道に出て下流へ。 突き当りを左折し、少し走って合志川沿いの道へ入る。

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中富小学校のところをショートカットし、中川橋を渡り、県道138号線を走って来民の旧道を抜け、県道197号線に入り北へ。坂を上がって、不動岩の近くを走る。

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そこから1キロ足らずで松尾中佐の出身地、久原地区に入る。中佐がかつて通った三玉小学校が左手にあり、その正門前に「殉国の碑」が建っている。

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左側の砲弾型の碑には日清・日露戦争、右側の大きな碑には第二次大戦での久原地区の戦死者名が彫られている。 当然ながらその中に、松尾敬宇の名前も。

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そこから三玉小学校の東側の道をショートカットして再び県道197号線に入り、500mほど走ると右側にある「一つ目神社」。

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その100mほど先に松尾中佐の碑を示す標柱が建っており、案内に従って進む。

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やがて松尾家の墓地に到着。

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横には日・豪の国旗と石碑が建ててある。

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第二次世界大戦時の日本軍によるシドニー湾攻撃時、特殊潜航艇による攻撃は、松尾艇を含む3艇(2人乗り)にて行われた。1艇は防潜網に引っかかって身動きができず、そのまま自爆を遂げた。次の艇は輸送船を撃沈するも砲撃の損傷で未帰還(後にシドニー湾沖の深海底で発見)となった。最後の松尾艇は艇前方を岸壁にぶつけたことで魚雷発射管が故障したため攻撃出来ず、艇を米重巡「シカゴ」へ体当たりさせることで魚雷を爆発させようと図ったが、小接触におわり叶わなかった。そして松尾は部下の都竹正雄二等兵曹(戦死後海軍兵曹長)とともに拳銃で自決した。 その後、オーストラリア海軍により松尾艇を含む2艇は引き上げられ、

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遺体は海軍葬をもって葬られた。 シドニー市内では敵国の軍人を丁重に弔うことに反対の声も大きかったが、オーストラリア海軍司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド少将は部下に対し、以下の様に演説した。

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「私は敵国軍人を、海軍葬の礼をもって弔うことに反対する諸君に聞きたい。 勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつくすことが、なぜいけないのか。 勇気は一民族の私有物でもなければ伝統でもない。 これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべきものである。 このような鉄の棺桶に乗って死地に赴くのには、相当の勇気が要る。 これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか?」

遺骨は当時の駐オーストラリア公使に託され、戦時交換船の「鎌倉丸」により日本へ帰国。

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1968年(昭和43年)4月、松尾の母・まつ枝は、招きによりオーストラリアを訪れた。

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シドニーでは海軍が出迎え、市内では大歓迎を受けた。19代オーストラリア首相ジョン・ゴートン、バート・ケリー海相と会談。また引き上げられた潜航艇が展示されている戦争記念館に到着すると、マッグレース館長より松尾が所持していた千人針が返還された。 こうして、この逸話は日豪友好の礎のひとつとなっているらしい。

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そこから少し北へ走り、右折し、坂を上って、久しぶりの首石トンネル。

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トンネルをくぐり、坂を降りて菊鹿の田園地帯を走り、坂を上って鞠智城へ。

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坂を降りて途中で左折し、菊池市街地を避け、県道133号線の菊池北小のところから菊池神社へ。

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生前、松尾中佐は菊池神社を深く崇敬し、出撃に際しては菊池神社の御守りと菊池氏ゆかりの「菊池千本槍」と呼ばれる短刀を携えたほどであった。 そのため境内の一角には彼の銅像が建っており、

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菊池神社歴史館(入館料300円は、ちと高い)には松尾中佐の遺品を展示したコーナーもある。

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日本が戦争をしなくて良い日が続くように神社にお参りし、帰路へ。 県道23号線を南に走って右折し、やがて菊池川沿いの道へ。しばらく走っていると、田上さん、持木さん、それに女性の3人グループに遭遇! 女性の自転車(シティーサイクル)の性能に合わせて菊池川沿いをのんびりサイクリングとのこと。

花房から日田街道に入り、坂を上り、道の駅 泗水の物産館の食堂で、馬カレー(530円)をいただく。なかなかのコスパ。

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当初は日田街道を走って帰るつもりだったけど、久しぶりにKSC(熊本シニアサイクリング倶楽部)の先輩方にお会いしたので、あの頃教えていただいた県道138号線を走って途中で右折し、農業公園の東側の道を走り、

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すずかけ台を抜け県道337号線へ出るルートで帰った。 本日の走行距離:81.4㎞

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今回はWikipedia「特殊潜航艇」から画像および文章を引用した。

 

後記) 「軍神」とは輝かしい武功を残して戦死した軍人に対する尊称で、戦時中、陸・海軍がそれぞれ公式に「軍神」と認めた軍人がいますが、松尾敬宇中佐はそれらの軍人には入っていません。本文中にも紹介したように松尾中佐は武勲を立てていませんが、地元熊本では松尾中佐の事を「軍神」という敬称で呼ぶことが少なくありません。終戦を海軍兵学校で迎えたわたしの義父は戦後、同郷の先輩・松尾中佐を「軍神」と呼び、熊本在住の海軍兵学校の同期生と連れ立って毎年松尾中佐の墓前を訪れ、花を手向けていました。義父は晩年、認知症を患い5年前に亡くなってしまいましたので、松尾中佐を「軍神」と呼んだ真意を確かめることはできませんが、松尾中佐の死が敵将の心を動かし、その勇気に対して海軍葬という形で敬意を表し、戦時中にも関わらず遺骨を返還し、戦後には松尾中佐の母親を招待して遺品を返還するなど、戦後の日豪関係の発展の礎となったことを踏まえて義父が「軍神」と呼んだと解釈しました。日本人が古来から持つ「神」に対するおおらかさと、松尾中佐を「軍神」と呼んだ義父の想いに沿って、ここでも敢えて松尾敬宇中佐に対して「軍神」という敬称を付けました。 それから、最後に付け加えますと、今回のエピソードで私が感銘を受けたのが、オーストラリア海軍司令官グールド少将の対応と演説です。これこそが松尾敬宇海軍中佐の「武勲」だと感じています。 (令和2年6月18日追記)