熊本城の南西端、新町のYMCAの前の清爽園の「熊本県里程元票跡」を起点とし、宮崎へ向う、『日向街道(日向往還)』がある。明治時代まで約400年に渡って使われた街道だという。以前登った軍見坂(ぐみざか)がその街道の一部であることを最近知り、もう一度登ってみたくなった。ついでにそのまま進んで矢形川沿いに吉無田高原まで登ってみる。 うったちが悪くて7時半過ぎにクロモリロードバイクで出発。いつものように京塚・陸上自衛隊健軍駐屯地経由で県道232号線に出て南下。高速道路をくぐり、木山川を渡る所で東の空を写真に収める。
今日は曇りで昼過ぎから所によって雷雨の予報。しかしここ数日、連続して予報は外れている。今日はどうだろうか? 国道443号線に出て右折。御船町に入り、木倉のところから左折して県道221号線に入る。数百メートル進んだ所に、付近の案内図があり、引き返して、木倉小学校の近くにある門前川眼鏡橋を見に行く。
1808年にかけられた小さな眼鏡橋で、日向街道はこの橋を通っている。 ここから旧道(日向街道)を走って軍見坂方面へ登る。先ほど登りかかった新道に合流して道幅が広くなるが、やがて道幅が狭くなり、本格的な登りが始まる。段々勾配が急になり、やがて左手に天君(あまきみ)ダムへの分かれ道。
10%を超えるような坂が数百メートル続き、勾配は緩やかになる。しかしここで調子に乗ってはいけない。しばらく登ると、再び勾配が急になる。坂を上りきる少し手前で西側の眺望が開ける。
坂を上りきると左手に五里木の跡の石碑。
そこから数百メートル進むと、そこは「凱旋門」という地名らしく、日露戦争の勝利を祝う凱旋門の石柱が道の両脇に建っている。
右の石柱に「日露戦役紀念」という字が読める。
このあたりから、辺りに棚田が増える。
そこから1kmほど進んだ上野地区は幕末の尊皇攘夷の志士で、池田屋事件で自刃した宮部鼎蔵の出身地。彼の生家跡や
彼を顕彰した公園の「鼎春園」があり、銅像や石碑などがある。
そこから少し先で日向街道は右折しており、そちら方面に「八勢眼鏡橋へ1km」という表示があるので、少し寄り道する。右折して棚田の間の道を降りて行き、八勢川にかかる八勢眼鏡橋に到着。
八勢川が流れるこの箇所は日向街道の最大の難所で、この八勢眼鏡橋は1855年に御船の材木商が私財をなげうって架けたもの。奥には小さい水路橋が続いており、
そこまでの長さ62mは県内で最長の石橋だとか。石橋の先には石畳が続いており、当時の往来が偲ばれる。
石橋から引き返すつもりでいたが、石橋の近くにある地図を見ると、そのまま先に進むと県道221号線か県道57号線には出そうだったので、先へ進む。坂を上って、突き当りを右に曲がってしばらく進むと日向街道の六里木跡の石碑。
さらに進むと、どうも方角的に吉無田方面には向っていない気がして通りかかった軽トラックのお父さんに聞くと、「こちらではダメ」と。「さっきの突き当たりの所を右にいかずに左に行けばよいか?」と聞くと、「あの道は始めての人では判らん。上野地区まで引き返す方が良い。」と立ち去る。上野地区までは戻りたくないので、自分の本能を信じて、さっきの突き当たりを右折せず、左折する。これがなかなかのアップダウンの道で、途中、農作業中のお母さんに聞いたりして、やっとこさ県道57号線に出て、左折。数百メートル走って「歌野酒店」で休憩。
ここから吉無田高原へアタックを開始。矢形川沿いの道を進む。
この道は南側がオープンで太陽光が容赦なく照りつける。初めは大したことなかった勾配も段々ときつくなる。「みふね化石ひろば」の先の急坂をひぃひぃ言って登りきる。
この道はきつい。 やっとの思いで「緑の駅」に到着。
よかった!今日はお姉さんがいて店が開いている。
しばらくお姉さんと話をして、ベーコンレタスチーズバーガー380円を食べる。
お土産用にベーコンも購入。
お姉さんに別れを告げて西原方面へ降りる。途中、ミルク牧場の上の交差点の所で西の方を写真に収める。
西原の小森から県道225号線に入り、白川を渡って県道207号線を左折。陣内から右折して大津の旧道を左折。室町のKenさんの関所に到着。
いつものようにアイスコーヒーをいただく。
いつもいただくばかりなので、さきほどのベーコンを差し上げ、ワン連れの俵山サイクリングの写真や、東京スカイツリー旅行の写真などを拝見しながら30分ほどお邪魔する。 県道337号線に出て、久しぶりに武蔵塚公園でトイレ休憩。
武蔵塚にもお参りする。
県道337号線から北バイパスに上がり、東バイパス沿いの歩道を走って帰った。 本日の走行距離:68.2km
御船町木倉から歌野酒店までの拡大図も。